新版 ハワイアン・ガーデン: 楽園ハワイの植物図鑑.A Pocket Guide to Hawaii's Trees and Shrubs (Pocket Guide Series)

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新版 ハワイアン・ガーデン: 楽園ハワイの植物図鑑

A Pocket Guide to Hawaii's Trees and Shrubs (Pocket Guide Series)

 

どちらもハワイの植物図鑑です

ハワイ旅行に行った際,現地の植物を調べるのに重宝しました

 

2019年10月4日,ビショップ・ミュージアム併設自然植物園では,環境ごとの特徴的な植物を紹介していました

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1.乾燥林の自然植物( Na hele ナヘレ)
 ‘’Dryland forest”(乾燥林)というのがどの程度の雨量かというと,年間50インチ(1270mm)以下らしいですね
 大阪府の年間平均降水量が約1279mmなので,大阪と同程度の乾燥ということです

2.海岸の自然植物( Kahokai カホカイ)

3.ポリネシア人が伝えた植物(Mai na wa’a  マイナヴァア)
 ※外来種ですが,伝統植物として,近代の侵入種とは区別されています

 

1.乾燥林の自然植物( Na hele ナヘレ)

f:id:shinok30:20210407154221j:plainハラペペChrysodracon hawaiiensis(クサスギカズラ科)
ハワイの固有種で絶滅危惧種です
クサスギカズラ科は野菜のアスパラガスや観葉植物のドラセナの仲間で,ハラペペもドラセナに似た姿をしています

 

f:id:shinok30:20210407154215j:plainウーレイOsteomeles anthyllidifoliaバラ科
テンノウメ,イソザンショウ,テンノウバイ
ハワイサンザシという和名を書いている本もありました
日本でも庭木、盆栽などに利用されている木です
サクラに似た白い花が咲き,白い小さな実が成ります
実は甘いそうですが食用にはなりません
種子は乳児用の薬として使われました

 

f:id:shinok30:20210407154210j:plainアラヘエPsydrax odorata(アカネ科)
葉から黒い染料が採れます

ウーレイもアラヘエも材が硬く,土を掘る道具や魚を捕る銛に使われました

 

f:id:shinok30:20210407154205j:plainクプクプNephrolepis cordifolia(ツルキジノオ科)
日本やニュージーランドでも見られるタマシダです
米原産のセイヨウタマシダNephrolepis exaltataもクプクプと呼ばれますが,別種です

 

f:id:shinok30:20210407154200j:plainアアリイdodonaea viscosaムクロジ科)
和名はハウチワノキ
インド~東南アジア~オーストラリア~太平洋諸島に広く分布する木で,日本でも『ドドナエア』という名前で観葉植物や庭木として流通しています

 

f:id:shinok30:20210407154153j:plainホーアヴァPittosporum hosmeriトベラ科)
ハワイ固有種
実にはトウガラシのような刺激臭があり,アララ(ハワイガラス)という絶滅危惧種の鳥の餌になるそうです

 

f:id:shinok30:20210407154147j:plainウキウキDianella sandwicensis(ススキノキ科)

ハワイアンリリーとも呼ばれますが,ユリ科ではなくススキノキ科キキョウラン属(ハワイ固有種)
ススキノキ科という名前に耳馴染みがありませんが,アロエ類もススキノキ科だそうです
中国や日本で見られるキキョウランDianella ensifoliaと同じように青い実がなりますが,キキョウランよりも実が大きいのが特徴だそうです
この実からは青い染料が採られ,種子はレイに,葉はロープに使われます

 

f:id:shinok30:20210407154141j:plainハオRauvolfia sandwicensisキョウチクトウ科

ウキウキもハオも種小名が同じsandwicensisですが,これはハワイ諸島の旧名サンドウィッチ諸島から取られたものなのでしょう
(『サンドウィッチ諸島』は1778年ハワイ諸島に到達したクックが,後援者J・M・サンドイッチ伯にちなんで命名したもの)

根は薬用です
キョウチクトウ科の植物は有毒なアルカロイドを含むものが多いのですが,この種はインドジャボクRauvolfia serpentinaに近縁で,インドジャボクと同様に根にレセルピンを含みます
レセルピンは高血圧や統合失調症の治療に重宝されたアルカロイドです

 

f:id:shinok30:20210407154135j:plainロウルPritchardia sp. (ヤシ科)

シュロのような扇状の葉を持つ小型のヤシ
ロウルとはハワイ語で『傘』という意味で伝統的に扇状の葉を傘として使っていたことから付けられた名前です
ハワイでロウルと呼ばれるヤシは28種(そのうち24種はハワイ固有種)あり,全てPritchardia 属だそうですが,この自然植物園に植栽されていたロウルの種名は分かリませんでした

f:id:shinok30:20210407154130j:plainロウルPritchardia sp. (ヤシ科)

これは後日行った,ライオン植物園に植栽されていたロウル
これも種名は分からず,ビショップ・ミュージアム併設自然植物園に植栽されていたロウルと同種かどうかも分かりませんでした

f:id:shinok30:20210407154124j:plainニウCocos nucifera(ヤシ科)

参考までに,ライオン植物園に植栽されていたココヤシ(ハワイ語で『ニウ』)
葉はロウルのような扇形ではなく,羽状なのが分かります

多くの人がヤシと言って最初に思い浮かぶのはこの木でしょう
ハワイでも普通に見られますが,自然植物ではなく,ポリネシア人が伝えた伝統植物ですね
成長が早く,非常に有用な植物でポリネシアの文化にも深く結びついています

 

2.海岸の自然植物( Kahokai カホカイ)

f:id:shinok30:20210407154116j:plainアーヴェオヴェオChenopodium oahuenseヒユ科

ハワイ固有種
葉は湯がいてホウレンソウのように食べることができます
材はサメを釣る釣り針を作るのに使われました

 

f:id:shinok30:20210407154110j:plainイリマSida fallaxアオイ科

黄色い花が時間とともにオレンジ,淡赤色に変化します
高貴な花とされ,王族が付ける特別なレイに使われました
ハイビスカスがハワイの花になる前はイリマが国花でした
蕾は下剤に,根の皮は疲労回復と喘息の予防に用いられました

 

f:id:shinok30:20210407164500j:plainマオGossypium tomentosumアオイ科

伝統的には花はレイ,根は胃薬に使われました

ハワイアン・コットンと呼ばれるワタ属(Gossypium)の植物で,黄色い花が咲いた後に卵形体の蒴果ができて赤茶色の綿が採れますが,ハワイには糸を紡ぐ文化がなかったため,伝統的にはマオの綿も繊維として利用されることはありませんでした 
綿花として栽培して利用しようとする計画もあったようですが,商業的に成功したという話は聞きません

ちなみに,糸を紡ぐ文化がないということは紡いだ糸を織った布もなかったということです
ハワイの植物の説明で『染料として利用』とあった場合,染めるのは布ではなく,カパと呼ばれる樹皮を叩き伸ばして作った不織布ですね
マオの葉からもカパを緑色に染める染料が採られました

 

f:id:shinok30:20210407154105j:plainナウパカ カイScaevola coriaceaクサトベラ科)

トベラに似た葉を持つクサトベラ科の植物(『クサトベラ』科と言っても草本ではなく低木)
かつてはハワイ全土で見られたのですが,現在ではマウイ島とその周辺でしか見られない絶滅危惧種です(野生個体数は300以下とされている)

 

f:id:shinok30:20210407154101j:plainポーヒナヒナVitex rotundifolia(シソ科)

和名はハマゴウ
東アジア〜東南アジア〜ポリネシア〜オーストラリアに分布し,日本でも本州・四国・九州・琉球の海岸や琵琶湖沿岸の砂浜に生育します
花や葉に芳香があり,レイや香料に使われました

 

f:id:shinok30:20210407154056j:plainアフアヴァCyperus javanicus(カヤツリグサ科)

この写真はたまたま刈り取られた後だったようですね

f:id:shinok30:20210407154050j:plainアフアヴァCyperus javanicus(カヤツリグサ科)

この写真はライオン植物園に植栽されていたものです
茎は撚ってイプ(ヒョウタン)などに巻き付けるロープとして利用しました
海岸近くの塩分を含む湿地に分布しますが,タロイモ水田の脇にもよく生えているそうです

 

3.ポリネシア人が伝えた植物(Mai na wa’a  マイナヴァア)

f:id:shinok30:20210407180200j:plainハラPandanus tectorius(タコノキ科)
英語でScrewpineと呼ばれるタコノキの仲間

パイナップルのような形の特徴的な実を付け,果実が水に流されることで分散します
実は食用,葉は編み細工,幹は建材になる有用植物です

f:id:shinok30:20210407180238j:plainハラPandanus tectorius(タコノキ科)

果実は球形で多数の多角形の果実からなる集合果で,パイナップルのような形ですね

f:id:shinok30:20210407154045j:plainハラPandanus tectorius(タコノキ科)

集合果を形成する果実の一つ

 

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ノニMorinda citrifolia(アカネ科)

和名はヤエヤマアオキ
インドネシアのマルク諸島が原産らしいです
ノニはハワイ語で日本でも「ノニジュース」という名前の健康食品として売られていますね
樹皮は黄色,根は赤色の染料になります

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ノニMorinda citrifolia(アカネ科)の果実

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ノニMorinda citrifolia(アカネ科)の葉

 

f:id:shinok30:20210407154025j:plainマイアMusa × paradisiaca(バショウ科)

栽培バナナ(マレーヤマバショウ(Musa acuminata)とリュウキュウバショウ(Musa balbisiana)との間の交雑種の三倍体。)
写真の後ろにあるイネ科植物はサトウキビですね
どちらもハワイ人の生活には欠かせない栽培植物です

 

f:id:shinok30:20210407181111j:plainアヴァPiper methysticum(コショウ科)

乾燥させた根を粉末にしたものを水に溶いて飲むと酒に酔ったような酩酊感があります
メラネシアからポリネシアで広く愛飲される嗜好品で,トンガ語のカヴァの名前で有名ですね

 

f:id:shinok30:20210407154020j:plainオーレナCurcuma longa(ショウガ科)

インド原産のウコンもポリネシア人が伝統植物として伝えて,染料や薬用に使用されています

 

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カロColocasia esculentaサトイモ科)

いわゆるタロイモポリネシア人の主食の一つですね
水耕と陸耕がありますが,前者が一般的で,後者は飢饉の時の救荒作物として重要です

f:id:shinok30:20210407154011j:plainカロColocasia esculentaサトイモ科)各部の名称と利用方法の展示(ビショップ・ミュージアム内)
カロ(根塊)を焼いたものはアオ,地下茎はオハ,葉はルアウ,葉と根塊をカットした残り(種付用)はフリと呼ばれるなど,呼び名が細分化されています
カロは,イム(地中に埋めて蒸す調理法)の後に潰して糊状にしたポイにして食べるのが一般的でした

f:id:shinok30:20210407154006j:plainカロColocasia esculentaサトイモ科)栽培法の展示(ビショップ・ミュージアム内)
農具は「掘り棒」(先を尖らせた木の棒)のみで,掘り棒で植え付けをするので、自然に点植え式になりました

 

f:id:shinok30:20210407154001j:plainウヒDioscorea alataヤマノイモ科)
ダイジョ,ヤムイモ
日本のヤマイモ(ヤマノイモD. japonica)やナガイモD. polystachyaは同属の別種です
 
東南アジアで起こった根栽農耕文化圏で,芋は『Ubi』に似た名前で呼ばれます
これはオーストロネシア祖語(台湾の原住民語)を語源とするものなのでしょう
「栽培植物と農耕の起源」(中尾佐助著,1966年,岩波新書)の中では,この根栽農耕文化のことを「ウビ農耕文化」と呼び,
バナナ、ヤムイモ、タロイモ、サトウキビの4つを組み合わせたことと,
栽培法において『種子』を用いない、根分け・株分け・挿し木などの栄養体繁殖のみで行うことを特徴として挙げています

ハワイの伝統的な農業も,他のポリネシア農業と同様に,この「ウビ農耕文化」に属するものでした

 

f:id:shinok30:20210407153956j:plainククイAleurites moluccanusトウダイグサ科

英語でCandle nut treeと呼ばれ,種子から採れる油が灯油として使われました
現在でもロミロミ(ハワイアンマッサージ)のオイルとして欠かせない素材です

殻付きの実はレイに,種子は油の他に便秘薬や調味料(イナモナ、炒った種子に塩を加えたもの)に,茎は薬用に,樹皮は赤色の染料に,花は口内炎の治療に,葉はレイの素材や薬用に,材はカヌーのブイに,根は黒や茶色の染料にと全てを余すところなく使われる有用植物です

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ククイAleurites moluccanusトウダイグサ科)の実

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ククイAleurites moluccanusトウダイグサ科)の葉

 

f:id:shinok30:20210407153948j:plainキーCordyline fruticosa(クサスギカズラ科)

和名はセンネンボク
ハラペペと同じクサスギカズラ科(かつてはリュウゼツラン科とされた)ですが,こちらはポリネシア人が伝えた伝統植物です
地下茎は食用,葉は肉や魚を包んで蒸し焼きにする時に使わました
また、キースカートと呼ばれるフラの衣装もこの葉を使ったものです
現在では観葉植物として知られ,様々な園芸品種が作られています

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キーCordyline fruticosa(クサスギカズラ科)の葉

 

 

f:id:shinok30:20210411141557j:plain 2019年10月5日に訪れたライオン植物園Lyon Arboretumの受付です(ここで入場料を払います)本や写真,植物の種子,雑貨等の土産物も売っています

現地に『ライオン植物園』という日本語の掲示がありましたが,実際は植物園というよりはハワイ大学マノア校の演習林です

建物正面に生け垣状に列植している葉の赤い植物は伝統植物であるキー(センネンボク)の園芸品種('Lilinoe'リリノエ?)ですね

 

f:id:shinok30:20210407184225j:plainオヒア・レフアMetrosideros polymorpha (フトモモ科)

ライオン植物園に植栽されていたハワイ固有種です
種小名の‘’polymorpha‘’ は『多型の』という意味で,棲息環境によって樹形が大きく異なることに因みます
湿原では30cmほどの低木ですが,森の奥では20m以上の高木になり,葉の形や枝振りも変わってきます
 
ハワイの伝統文化ではオヒアは樹木,レフアは花を指します

昔,オヒアという若者とレフアという娘がいて二人は愛し合っていました
日の女神ペレはオヒアに惚れて求愛するが拒まれ,激怒したペレはオヒアを醜い木に変えてしまいました
悲嘆するレフアを不憫に思ったペレの弟カモホアリイがレフアを赤い花に変え,オヒアの木に咲かせてやりました
そのためレフアの花を摘むと離ればなれになるのを悲しんで涙を流し雨が降るという言い伝えがあります

この言い伝えのためレフアの花は摘んではいけないとされているわけではないらしく,花や葉はレイによく使われます

f:id:shinok30:20210407184221j:plain低木のオヒア・レフア Metrosideros polymorphaの葉は小さく厚く,葉裏には毛が密生しています

f:id:shinok30:20210407184215j:plain高木のオヒア・レフア Metrosideros polymorpha

 

f:id:shinok30:20210407185229j:plainコアAcacia koaマメ科

これもライオン植物園に植栽されていたハワイ固有種です

高級木材とされ,建材や木工品,カヌーやウクレレなどの楽器に用いられましたが,過去の乱伐のせいで数が減っていて,現在では倒木であっても採取は禁止されています

小さい複葉と特徴的な三日月型の葉をつけますが,小さい複葉が本来の葉で,三日月型の葉は複葉の葉身が退化して葉柄部が扁平になってできた偽葉です

 


2019年10月5日,マノアの滝へのトレイルでもいくつかの植物が見られました
ここは映画「ジュラシックワールド」のロケ地の一つで, ワイキキから手軽に行けるジャングルということで人気の観光スポットです
原生林的な解説をされていることもありますが,実際には外来種も多いですね

f:id:shinok30:20210407153940j:plainコーピコPsychotria mariniana (アカネ科)

ハワイ固有種で,白く小さな五弁の花をつけます
材は非常に硬いのですが,節が多くて大きな材が取り難いので,燃料として燃やされることも多かったようです

マオ(ハワイアン・コットン)の解説で,ハワイには糸を紡いだり織って布を作る文化がなく,樹皮を叩き伸ばしたカパと呼ばれる不織布が衣類に用いられたと書きました
コーピコの木はこのカパを作るときの叩き台としても使われたそうですね

 

f:id:shinok30:20210407153935j:plainハープウCibotium glaucum (タカワラビ科)

ハワイ固有種の木性シダです

根茎にデンプン質を含むため救荒作物として利用されました
主食である水耕のカロ(タロイモ)も陸耕のカロも採れず,ウル(パンノキの実)も採れず,ウヒ(ヤムイモ),ウアラ(サツマイモ).ピアラ(タシロイモ)も育たない飢饉の際に,ハープウの根茎からデンプンを採りました
木化した根茎を切り出す作業は大変な重労働で,しかも最低でも3日間ほど根茎を蒸す行程も必要なため,本当に最後の手段だったようです

 

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ブルージンジャーDichorisandra thyrsifloraツユクサ科)

ブラジル原産の外来種です

トレイルの近くに群生があり,美しい青紫色の花を多数付けているため非常に目を引きます
外観から誤認されて『ジンジャー』と呼ばれていますが,ショウガ科ではなくツユクサ

 

f:id:shinok30:20210407153930j:plainルッカネムParaserianthes falcatariaマメ科

インドネシアのマルク(モルッカ)諸島原産の外来種で,年間で7m伸びることもあるという非常に成長が早い木(早生樹)です(早生樹 ―産業植林とその利用―.海青社 (2012/8)
 
100年以上前,伐採地や牧草地などの斜面の土壌流出を防ぐため,成長の早い本種を植林しました
現在ではハワイ全土に分布を拡げ,在来樹種の生育に悪影響を与えています
40m以上の大木になりますが,早く成長するため材が脆くて弱いため,前ぶれなく枝が折れて落ちてくることがあり,非常に危険です

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トレイル上にたくさん落ちていたモルッカネムParaserianthes falcataria の豆果の鞘

 

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バニヤンツリー(ベンガルボダイシュ)Ficus benghalensis(クワ科イチジク属)

インド原産の外来種で絞め殺し植物として有名なバニヤンツリーが,ハワイでも普通に自生しています

 

f:id:shinok30:20210407153920j:plainクロチクPhyllostachys nigra(イネ科)

中国原産の外来種です

元々,ハワイにはタケ類は自生していませんでしたが.ポリネシア人がオヘSchizostachyum glaucifoliumと呼ばれるタケを伝え,水筒,楽器,建材等に利用していました
現在では本種やホテイチクPhyllostachys aureaのような中国のタケ類が持ち込まれて自生しています

 

ボルネオ・ サラワク王国の沖縄移民.ボルネオに渡った沖縄の漁夫と女工

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ボルネオ・ サラワク王国の沖縄移民.おきなわ文庫.ひるぎ社.1994

ボルネオに渡った沖縄の漁夫と女工.ボルネオ史料研究室.2001

 

どちらも同じ著者(望月雅彦)による貴重な史料です
戦前からたくさんの沖縄の農民や漁民が移民していたボルネオ島北部のサラワク王国や英領北ボルネオ(現在のマレーシア連邦サラワク州サバ州)の記録です

 

ボルネオ・ サラワク王国の沖縄移民で描かれているのは,サラワク王国の「日沙商会サマラハン農場」に入植した沖縄移民,24家族,114名の生活です

 

当時,サラワク王国はラジャ三世(イギリス人探検家で初代藩王のジェームズ・ブルックの甥の息子)の治世で,彼は第一次大戦中,イギリスに帰り,サラワクの藩王であることを隠して従軍したりしています
その間にサラワク王国の貿易は行き詰まり,物価が高騰して米不足になりました

元々,サラワク王国には,天然ゴム農園に人手を取られて米作農民が減少した結果,主食であるコメの自給率が低いという問題がありました
それに対して当時の沖縄は,「ソテツ地獄」(主食が水に晒したソテツのデンプンだった)と言われる時代で,10歳前後の子どもが借金のカタに身売りされることが普通でした

米作に習熟した農民を入植させることでコメの自給率を上げたいというサラワク側の事情と,貧困に喘ぐ中で南国で稼いで蓄財したいという沖縄農民の事情が合致し,移民が行われたようです

実際にはサラワク王国での米作はうまくいかず,入植者の多くは天然ゴムやコーヒーを作ることになったのですが……

 

ボルネオに渡った沖縄の漁夫と女工で描かれているのは,第二次大戦前にボルネオ水産に雇用されて英領北ボルネオに渡った漁師と缶詰や鰹節女工,英領北ボルネオ漁業移住団として出漁した漁船員,日本軍占領時にクチンに渡航した関係者の生活です

 

この本の中に面白い記述がありました

沖縄には漁夫が潜水して網に魚を追い込む伝統漁法があり,鰹漁の餌となる小魚を捕っていました
この技術を持った漁民がボルネオに移民し,現地でも鰹の餌取りを行っていました
ところが戦争が始まり,多くの移民が現地徴兵された結果,伝統漁法の技術を持った漁民がいなくなった所では,仕方なく軍からもらったダイナマイトで漁をするようになりました

これが今も各地で問題になっているダイナマイト漁のルーツの一つなのかもしれませんね


また,沖縄からの入植者の中で若者が徴用されると,老漁夫や女工とその乳飲み子たちが取り残されることになりました

戦争末期になると,機銃掃射や爆撃も激しくなり,自給自足のための農作業も滞るようになりました

このままでは全員が餓死するということで,100名以上の大世帯が高原の密林を超える大移動を行い,内陸のキナバル山麓ラナウに避難し,農耕をしながら細々と露命をつなぐうちに終戦を迎えたとあります
当然,機銃掃射や爆撃だけでなく,この大移動の際に命を落とした人も数多くいたようです

現地徴用された若者たちもその多くは「北ボルネオ死の行進(別名『サンダカン死の行進』)に参加し,北ボルネオ東海岸から西海岸への移動中に,マラリアや飢餓によって戦わずして命を落としたのですが,(女性や子どもたちを含む)軍人以外の人たちの犠牲も大きかったということです

 

ブラッドハンター―血液が進化を語る

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ブラッドハンター―血液が進化を語る.庄武 孝義.新樹社

この本の著者,庄武孝義は11種7000頭の野生猿を捕獲して採血した『ブラッドハンター』の異名を持つタフな生物学者です

 

著者は,アフリカのサバンナヒヒ類(アヌビスヒヒ,キイロヒヒ,チャクマヒヒ,ギニアヒヒ)とマントヒヒの関係について,サバンナヒヒ類とマントヒヒの共通祖先の一部が陸橋を通ってアフリカからアラビア半島に渡り,その後アラビア半島の過酷な環境の中で独自の進化をして(異質な社会構造を形成)マントヒヒになり,その後,最終氷期にできた陸橋を通ってアフリカ大陸に進出したのではないかと述べていますね
(アヌビスヒヒとマントヒヒの分岐は30〜40万年前ですが、属の異なるゲラダヒヒとアヌビスヒヒやマントヒヒの分岐は100〜150万年前です)
 
そして,このアヌビスヒヒ(Papio anubis)とマントヒヒ(Papio hamadryas),ゲラダヒヒ(Theropithecus gelada)とアヌビスヒヒやマントヒヒが野生状態で交雑し,妊性もあることが報告されています
>アヌビスヒヒとマントヒヒの雑種(写真提供:庄武孝義)
>Interestingly, though, Papio beboons do not only hybridise with one another. Dunbar and Dunbar, for instance, noted as early as 1974 that apparently fertile and reproductively successful hybrids can be produced between at least one Papio species and the gelada baboon, in the genus Theropithecus. These two genera are closely related, to be sure, next to one another on most phylogenetic trees of the old world monkeys, but have been distinct lineages for several million years. In addition to Dunbar and Dunbar (1974)'s wild hybrids between the gelada and anubis baboons moreover, Jolly et al. (1997) report hybrids between hamadryas baboons and geladas in the wild, and Markarjan et al. (1974) between Papio baboons and both geladas and rhesus macaques, the baboons' even more distant relatives in the genus Macaca. These so-called "rheboons", however, may not be fertile or capable of attracting mates (Jolly 2001).
>The Biological Species Concept and Hybridisation in Primates

 

上記のヒヒ類の例では,
アヌビスヒヒの群れに入り込んだマントヒヒのオスがアヌビスヒヒのメスと交尾したり,アヌビスヒヒのメスを連れ去ってマントヒヒの群れの中に出戻りユニットを作ったりすることができるのに対して,
マントヒヒの群れに入り込んだアヌビスヒヒのオスがマントヒヒのメスと交尾しようとしても,マントヒヒのメスはマントヒヒのオスの後ろに隠れ、マントヒヒのオスも威嚇して妨害するためほとんど成功しない
というように,その遺伝子交流は非対称です

つまり,
マントヒヒの群れはアヌビスヒヒのオスによる交尾を妨げる「交配前隔離」として働いていますが,
アヌビスヒヒの群れはマントヒヒのオスによる交尾を妨げる「交配前隔離」としては働いていないということです
そして,雑種個体にも生殖能力があり(「交配後隔離」も働いていない),実際に両種の間には遺伝的な交流があったことを示す証拠があります
例えば,マントヒヒ集団の中には「アヌビスヒヒのメスを連れ去ってマントヒヒの群れの中に出戻りユニットを作った」ことに由来するアヌビスヒヒタイプのミトコンドリアDNAが見られます
>エチオピアとサウジアラビアのマントヒヒのミトコンドリアDNA変異
>*庄武 孝義, 山根 明弘, Ahmed BOUG

 

Mayr(1942)の生物学的種概念の定義は「実際にあるいは潜在的に相互交配する自然集団のグループであり,他の同様の集団から生殖的に隔離されている」というものですが,
このように,野外における実際の種の生殖隔離は必ずしも完璧なものではないので、集団として分岐し、種として分化した後でも部分的に遺伝子交流がある場合があります

 

マントヒヒとアヌビスヒヒに見られるような非対称な遺伝子交流をIntrogressive hybridization(浸透交雑)と言います

この浸透交雑は様々な生物に一般的に見られる現象で,
例えば,ヤマトオサムシとクロオサムシの場合,クロオサムシ由来のミトコンドリアがヤマトオサムシの集団内に広く浸透していることが分かっています
 
> ヤマトオサムシとクロオサムシは,本州中部において側所的に分布を接している.また,種間交雑を通じて,クロオサムシ由来のミトコンドリアがヤマトオサムシの集団内に広く浸透している.このような分布と交雑の状態は,以下のような生殖隔離の状態を示唆する:
>つまり,両種間の生殖隔離は,(1)交雑による種の融合を妨げられるほど強い;
>(2)しかし,遺伝子浸透を妨げられるほど完璧ではない;(3)さらに,一方向的な遺伝子浸透をもたらすように非対称である.これらの可能性を検証するため,種間交配実験によって生殖隔離の強さを推定した.
>文献: Takami et al. (2007) Population Ecology 49, 337-346.
生殖隔離の非対称性が遺伝子浸透の方向性に及ぼす影響

 

また,マヤサンオサムシとイワワキオサムシの交雑帯では,採取される個体の交尾器の大半は両者の中間の状態で,かつ変異が非常に大きく,交雑帯の中でも交尾器形態のクラインが認められています
これは(両種の母集団からの個体の補充が続く状況で)交雑帯において様々な組合せの交雑が繰り返されていることを示していますが,
交尾器の折れた雄は10%以上にもなり,膣盲嚢に折れた雄交尾片が残っている雌も観察されていて,交尾形態の差が交雑に負の淘汰を与えていると考えられています(Kubota K 1988 Natural hybridization between Carabus (Ohomopterus) maiyasanus and C (O.) iwawakianus (Coleoptera, Carabidae). Kontyu Tokyo. 53, 370–380.
このように,雑種の適応度が低下する場合は,側所的分布が維持されたり,どちらか一方が絶滅することが理論的に予想されています(久保田耕平. 4章 生殖隔離と種分化  in 節足動物の多様性と系統. 石川良輔 編集. 裳華房 (2008)

 

それに対して,雑種の適応度が低下しない場合は,集団が融合した雑種起源の個体群が生じます

例えば,長野県伊那郡で分布を接するアオオサムシとテンリュウオサムシミカワオサムシの亜種)の交雑帯で採集される個体は,交尾器等の形態は両種の中間ですが,変異は小さく安定しています
地理的障壁(木曽山脈と深い谷)によって両種の母集団からの個体の補充が制限された状況で,雑種個体群内の交配が繰り返され,安定化淘汰を受けた結果,伊那谷天竜川周辺にイナオサムシと呼ばれる雑種由来の集団が生じています(Sota T, Kusumoto F & Kubota K Consequences of hybridization between Ohomopterus insulicola and O. arrowianus (Coleoptera, Carabidae) in a segmented river basin: parallel formation of hybrid swarms. Biol. J. Linn. Soc. 71, 2000c 297–313.
実験的にアオオサムシとテンリュウオサムシを交雑させると,(イナオサムシに酷似した)両者の中間的な形態の雑種が生じ,この交雑個体は両親の種と戻し交雑をする事により稔性を回復します
つまり,オアオオサムシとテンリュウオサムシは雑種個体を通じて部分的に遺伝的に交流することが可能だということです(近縁種相互作用の進化生態学的・分子系統学的解析. 曽田 貞滋.  (年度)1997 – 1998
 
オサムシ類の他にも,キアゲハ類(Papilio属:Sperling & Harrison, 1994)やナナフシ類(Bacillus属:Tinti & Scali, 1995)でも,交雑起源の個体群が知られていますね
  
このように,生物学的種概念の定義は概念的なものであり,
現実の種間の生殖隔離には、いくつもの抜け穴があって、近縁種間で完全な生殖隔離が見られる種はほとんどありません
もちろん,隔離の強度が強ければ強いほど集団は「種っぽく」振舞うのですが,ある集団が「種であるかないか」の線引きは、ある程度主観的にならざるを得ません

>1, BSCの基準のもとで「種」とみなされる前に生殖隔離が完成していなければならないか
>BSC に対する古くからの批判:近縁種間で完全な生殖隔離が見られる種はほとんど無い。
>  外見では雑種に見えなくても、近年の分子分析の発展によって交雑は以前考えられていたものよりもずっと頻繁である。

>著者らの見解
>・ 隔離の強度が強ければ強いほど両集団は「種っぽく」振舞う。「種」のレベルにあるかどうかはそのような Sliding Scale を含む。「種であるかないか」の線引きは、ある程度主観的にならざるを得ない。
http://www.hokudai.ac.jp/fsc/usujiri/chapter1.pdf
http://www.hokudai.ac.jp/fsc/usujiri/youshidl.html
Speciation [ペーパーバック] Jerry A. Coyne (著), H. Allen Orr (著) : Sinauer Associates Inc; illustrated版 (2004/5/28)

 

現生のヒトとチンパンジーの場合は,妊性のある雑種が生まれる可能性は低いと思いますが,(両者の遺伝距離はヒヒ属とオナガザル属間に相当します)
分岐直後であれば交雑した可能性はあります
 
ヒト集団とチンパンジー集団の分岐は650~740万年前とする研究結果が多いのですが,遺伝情報を調べると何度も分岐した可能性があり,最初の分岐から最後の分岐までに最大400万年の開きがあることから、
「いったん分岐したヒトとチンパンジーの祖先が長期間にわたって再び交雑したことによって遺伝子構成も変化した」とする研究もありますね (Nick Patterson, et al.(2006) Genetic evidence for complex speciation of humans and chimpanzees. Nature 441, 1103-1108.)

 

また,非アフリカの現生人類とネアンデルタール人やデニソワ人との交雑の証拠はいくつも見つかってきましたが,
両親はネアンデルタール人とデニソワ人 交雑の初証拠.ナショジオニュース(2018/9/8)
>X染色体におけるネアンデルタール人と現生人類との交雑の痕跡
>オーストラリア先住民のゲノム解読とデニソワ人との交雑

遺伝子の流れの方向性に関してはネアンデルタール人から現生人類の方に起こったと推定する研究があります
(つまり,遺伝子の流れの方向性が非対称だということです)
 
まず,現代の非アフリカ人はサン人よりもヨルバ人に遺伝的に近縁です
もし,非アフリカ人の祖先からネアンデルタール人への遺伝子の流れがあったとしたら,ヨルバ人はサン人よりも非アフリカ人に遺伝的に近い分だけはネアンデルタール人遺伝子と一致するハズですが,実際にはサン人とヨルバ人の間にはほとんど差はないので遺伝子の流れはほとんど一方的にネアンデルタール人から現生人類の方に起こったと推定されているんです
 
>Direction of gene flow.
>A parsimonious explanation for these observations is that Neandertals exchanged genes with the ancestors of non-Africans. To determine the direction of gene flow consistent with the data, we took advantage of the fact that non-Africans are more distantly related to San than to Yoruba (73–75) (Table 4). This is reflected in the fact that D(P, San, Q, chimpanzee) is 1.47 to 1.68 times greater than D(P, Yoruba, Q, chimpanzee), where P and Q are non-Africans (SOM Text 15). Under the hypothesis of modern human to Neandertal gene flow, D(P, San, Neandertal, chimpanzee) should be greater than D(P, Yoruba, Neandertal, chimpanzee) by the same amount, because the deviation of the D statistics is due to Neandertals inheriting a proportion of ancestry from a non-African-like population Q. Empirically, however, the ratio is significantly smaller (1.00 to 1.03, P << 0.0002) (SOM Text 15). Thus, all or almost all of the gene flow detected was from Neandertals into modern humans.
(Richard E. Green, et al.(2010) A Draft Sequence of the Neandertal Genome. Science 328, 710-722.)

 

ネアンデルタール人と現生人類の間の遺伝子の流れの非対称さの原因は分かりませんが,マントヒヒの群れがアヌビスヒヒを受け入れないように,ネアンデルタール人社会が現生人類を排除する障壁として働いたのかも知れません

 

ネアンデルタール人の配偶システムについてわかっていることは少ないのですが.
ミトコンドリアDNA分析の結果から,約5万年前頃のイベリア半島北部のネアンデルタール人社会に夫居制的婚姻行動の傾向が見られるらしいという研究があります
>ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA分析と社会構造
 
「夫居制」自体は現生人類の70%に見られる一般的なパターンですが,もちろん,これはすべてのネアンデルタール人に当てはまるとは限りません
現生人類においては「極端な一夫多妻」「完全な乱婚」は排除されますが,それ以外の様々なパターンがありました(第10章 ヒトの配偶システム.in 進化と人間行動.長谷川 寿一,長谷川 真理子
ネアンデルタール人の場合も環境に応じて社会構造が異なっていた可能性が高いでしょう


ただし,これまで研究は大きく修正される可能性もあります
ネアンデルタール人との交雑はなかったとされていたアフリカ人にもネアンデルタール人の痕跡が残っているとする研究が昨年発表されたからです
ネアンデルタール人のDNA、アフリカの現生人類からも検出 新研究


非対称な交雑といえば,現生人類の民族集団間の遺伝的交流も対称ではありません
ブライアン・サイクスの「イヴの七人の娘たち」と「アダムの呪い」を比べてみると,母系と父系の系統は異なることが分かります

例えば,ポリネシアのラロトンガ人集団のミトコンドリアDNAはほとんど同じで,東南アジアに起源を持つ(いわゆるオーストロネシア人)であるのに対して,Y染色体の約三分の一はヨーロッパ人のものでした
ポリネシアだけでなく,南米(ペルーやコロンビア)でも同様のヨーロッパ人Y染色体の侵入が確認されています
 
ポリネシア人にはヨーロッパの血が流れていた!
> このいらだたしいジレンマが解決したのは、アメリカの研究チームが新しい遺伝子マーカーシステムを開発したときだった。おかげで、Cクラスタアメリカのものか、ヨーロッパのものか、区別がつけられるようになった。その知らせを聞くと、わたしたちはすぐさまあの十個の染色体を検査にかけてみた。そして、決定的な結果を手に入れた。ラロトンガで見つけたCクラスターの染色体は、南米から来たものではない。ヨーロッパの染色体だ! わたしたちが調査したラロトンガ人の約三分の一、最初の入植者ではなく、ヨーロッパの男性からY染色体を受けついでいた。あまりに意外な結果だったので、みんな、なかなか信じられなかった。疑いの余地はない。そのY染色体は、ヨーロッパからやってきた。ポリネシアでヨーロッパ人のmtDNAが見つかったことは、一度もなかった。mtDNAの証拠を見るかぎり、あたかもあの島々にヨーロッパ人が足を踏み入れたことなどなかったかのように見える。ところがY染色体が、まるっきり別の物語を教えてくれた。ヨーロッパ人男性の軌跡が、そこかしこで見つかったのである。

> ヨーロッパ人によるポリネシア植民地化が遺伝学に与えた影響は.世界じゅうでくり返されてきた。いまでは科学者たちも、mtDNAとY染色体のどちらか片方に執着するのではなく、両者をともに分析する利点に気づきはじめている。ヨーロッパの植民地化の歴史とともに、それと似たようなY染色体の繁殖、いや、それ以上の繁殖ぶりが、世界のあちこちで見つかっている。
> 最近ペルーで,自分たちは純血のアメリカインディアンだと考えているパスコとリマの住民にたいする調査が行われた。そこから、彼らの九十五パーセントのmtDNAがあきらかにアメリカインディアンの末裔である一方で、Y染色体の半分がヨーロッパのものであることが判明した。コロンビアのメデリン近郊のアンティオクイアで行われたべつの調査では、Y染色体の九十四パーセントがヨーロッパのもの、五パーセントがアフリカのもの、そしてたったの一パーセントがアメリカインディアンのものであることがわかっている。アンティオクイアはスペインが最初に入植した南米の土地にあり、十六世紀初期に設立された町だ。そこで発見された五パーセントのアフリカ人Y染色体は、奴隷貿易によって大西洋からもたらされたものにまちがいないだろう。その調査対象となった男性たちのmtDNAを分析したところ、九十パーセントがアメリカインディアンの末裔で、残りはヨーロッパとアフリカのものだとわかった。(アダムの呪い.ブライアン・サイクス.ソニーマガジンズ (2004/05))

 

これらの現象は,ヨーロッパ人女性が現地人男性と交雑することがほとんどなかったのに対して,
現地人女性がヨーロッパ人男性を受け入れて交雑が起こったことを示しています

 

人類の進化 試練と淘汰の道のり―未来へつなぐ500万年の歴史

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人類の進化 試練と淘汰の道のり―未来へつなぐ500万年の歴史.埴原 和郎 (著)

  

 20年前の本なので古くなっている内容も多いのですが, この本によると,現在「早期ネアンデルタール人」とされている化石(英国のスウォンズクーム人やドイツのシュタインハイム人)は,かつては「プレサピエンス」と呼ばれていました
ネアンデルタール人との関係が否定されたほど,現生人類的な形質を持っていたからです

 詳細な比較研究が行われた結果,「典型的ネアンデルタール人」の祖先であるとされるようになったのですが,単体でみた時には現生人類の祖先に見えてしまうほどだったということです
 
>古いほど現代人に近い理由

> そこで.まずネアンデルタール人の祖先探しからはじめよう。
> 現在のところ、ネアンデルタール人の直接祖先は、前の章で紹介したハイデルベルゲンシス原人ではないかという可能性を否定する材料はない。したがって、断定することは危険かもしれないが、ネアンデルタール人の特徴が現れ始めたのはハイデルベルゲンシス原人以後,つまり早く見積もればほぼ五〇万年前、遅く見積もれば約三〇万年前よりもあとの時代と考えていいだろう。
> そうすると、ヨーロッパのハイデルベルゲンシス原人はすべて祖先としての可能性を持っていたことになるのだが、一九九七年になって新しい見解が発表された。それは、マドリードにある国立自然博物館のJ・M・ベルミュデス・デ・カストロマドリード・コンプルテンセ大学のJ・L・アルスアガらの報告である。
> 一九九四年から九六年にかけて、スペインのアタプエルカ山地にあるグラン・ドリナという中期更新世の洞窟遺跡で、八〇個にのぼる人骨化石が発見された。それらの頭骨や歯にはネアンデルタール人と、その後のホモ・サピエンス(サピエンス人)との特徴が混在している。そこで、著者たちはこの一群の化石に「ホモ・アンテセッサー(ホモの先行者)」という学名をつけ、ネアンデルタール人とサピエンス人の共通祖先と考えた。なおミシガン大学のJ・M・パレらの最近の報告によると、アタプエルカ人の年代は三二万五〇〇〇年から二〇万五〇〇〇年前と測定されている。
> これらのことを念頭において、以下では簡単にネアンデルタール人の祖先と思われる化石を追って見よう。
> 年代からみて、最初期のネアンデルタール人と考えられる化石は、英国のスウォンズクーム人やドイツのシュタインハイム人などである。これらは三〇万年から二五万年ほど前に生きていた人たちで、以前はプレサピエンスといわれ、ネアンデルタール人とは無関係とされていた。
> その後、ネアンデルタール人について詳細な比較研究が行われた結果、これらの化石もネアンデルタール人の特徴を持っていることが明らかになった。とはいえ、それはまだ一部の特徴に限られ、「典型的ネアンデルタール人」といわれるグループとは異なっている。そこで、これらの化石は「原ネアンデルタール人(プロト・ネアンデルタール)」と呼ばれることもある。
> これよりもやや新しいのはドイツのライリンゲン、フランスのビアージュ、すでに紹介したスペインのグラン・ドリナなどで発見された化石で、二五万年ないし、二〇万年前のものである。頭骨の形をみると、これも原ネアンデルタール人の仲間と考えられる。
> 復元された三個の頭骨の脳容量は最小一一二五cc,最大一三九〇cc,推定体重九三・一〜九五・四キログラムという。また、頭骨、骨盤,大腿骨などの形は、基本的にはネアンデルタール人の祖先とされているが、サピエンス人の祖型と思われる点もあるとのことである。したがって、これがネアンデルタール人とサピエンス人の共通祖先らしいという点で、アルスアガらの見解は変わっていないことになる。
> 要するに原ネアンデルタール人といわれる化石は、ネアンデルタール人の特徴とともに,むしろそれよりも進歩した形質を併せもっている。繰り返すようだが、そのために、これらの化石はネアンデルタール人との関係を否定されたのである。なぜなら、「典型的ネアンデルタール人」よりも古い時代に進歩的、つまりサピエンス人的な形質を持っていた集団が、その進歩性を振り落としてネアンデルタール人になったとは考えられない、という理屈が合ったからである。
> ところが現在の考え方は違う。それは、ネアンデルタール人が寒いヨーロッパに閉じ込められたために寒冷気候に適応し、徐々に特殊化を強めていった……ということが明らかになってきたからである。いいかえれば、ネアンデルタール人は一般的形質を持つ祖先種から徐々に離れ、寒いヨーロッパで孤立して特殊化の道を突き進んだのである。
>つまり、原ネアンデルタール人は、後の典型的なネアンデルタール人のスタートラインに立っていた人たちとも言える。
> ちなみに、ここでいう一般的ないし進歩的形質というのは、サピエンス人にも共通する形質を指している。したがってわれわれ現代人は、原ネアンデルタール人が持っていた一般的形質からの派生形質を維持しているということになる。それは、丸みを帯びた脳頭骨、上顎骨の犬歯窩、比較的弱い顔の前突、やや小さい尾骨などで、典型的なネアンテルタール人では、これらの形質が大きく変化している。(p.173-176)
 
 つまり,ネアンデルタール人は現生人類的な祖先種から進化してきたということなので,かつての「旧人」「新人」という語のイメージと異なり,むしろ,現生人類の方がネアンデルタール人よりも原始的な形質を保持した種だったということになります

 これは「ヒトは食べられて進化した」の解説で紹介した「ヒト上科よりもオナガザル上科の方が進化的」というのと同様に,「ヒトに近い方が進化的という先入観が逆だった」という例ですね

 

  

日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊  台湾原住民の太平洋戦争

日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊  台湾原住民の太平洋戦争. 菊池 一隆 (著)

台湾の原住民が日本軍の南方戦線の中でゲリラ部隊として活躍した話を書いています

 

この本の中に
>モロタイ島ではパイワン族の言語と現地人の使う言葉が六割も通じたのである(p.147)
という記述があります
 
いくら台湾島オーストロネシア語族の故郷とは言え,台湾原住民のパイワン語がニューギニアに近いマルク諸島のモロタイ島で6割も通じるなんてあるのだろうか?と疑問に思って調べてみました

 

ところが,まず,モロタイ島で使われていた「現地人の使う言葉」が分かりません
元々,モロタイ島は無人島で住民は他の島から移住してきたらしいからです

>モロタイ島はオランダ統治時代以前は無人島であって,現在の住民はそれ以降の,主としてアンボン島,サンギル島,タラウド島,ハルマヘラ鳥からの移民である。しかしハルマヘラ鳥からの移民は非常に少ない。(崎山 理 (1969)マライ・ポリネシア語族におけるブリ語(ハルマヘラ島 )の系統.東南アジア研究,7(3): 274-292)

 

とりあえず,ネット上にあった「アンボン島の島民が話しているアンボン語の単語集」(Bahasa dan Dialek Asia: Bahasa Ambon Allang)と菊澤(2017)で示されているパイワン語とマナム語(パプアニューギニア)の基本語彙とで比較してみました

基本語彙 パイワン語 (台湾) アンボン語   マナム語(パプアニューギニア
matusa matanu mata
kalevlevan lanita lang
道   djaLan lalanu jaLa
Lima lima debu
2 Dusa lua Rua
3 tjeLu tilu toiL

事前に予想していたよりも似ています
身振り手振りを合わせれば6割以上通じるかも知れません
 

この本には,「第1回高砂義勇隊(『高砂挺身報国隊』)は1941年12月編成,1942年3月15日に編成式,23日に高雄港から出港し,フィリピンのルソン島に上陸,バターン半島総攻撃に参加後,コレヒドール要塞を攻撃した」とあります(p.43)
 
2019年,私は台湾のタイヤル族の村,烏来(ウーライ)にある高砂義勇隊慰霊碑を訊ねました 

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上の碑文を見ると,「殉職日期 1941.04.30」とあります
第1回高砂義勇隊が編成される1941年12月よりも前に殉職しているんです

この碑文が間違っているのでしょうか?
それとも知られている「第1回」よりも前に「高砂義勇隊」があったのでしょうか?

 

おまけ

烏来(ウーライ)の酋長文化歌舞劇場前で踊り子たちと記念撮影しました

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ヒトは食べられて進化した

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ヒトは食べられて進化した. ドナ・ハート 著 ロバート・W・サスマン 著 伊藤 伸子 訳.化学同人

ハンター&ハンティッド―人はなぜ肉食獣を恐れ、また愛するのかでも書かれていたように,ヨーロッパやインドのオオカミはヒトを襲うのですが,この本によると,(理由は分かりませんが)北米のオオカミはヒトを襲わないとされているそうです

> 地元住民がオオカミにおびえているという学生の話はとくに,筆者二人とも頭を悩ませた。今もって解決できていない二つの事実に関連していたからだ。二つの事実ともに出所は確かだ。一つはオオカミの生態と行動に関してはまちがいなく世界的権威であるL・デビッド・メックから。メックは画期的研究を三五年間に初めて発表して以来、オオカミ研究の第一人者で、北アメリカにおいてオオカミによるとされている攻撃の全記録を詳しく調べている(注1)。その結果は、北アメリカではこれまで、人間はオオカミ(狂犬病のオオカミを除く)に一度たりとも襲われていないという事実を支持していた。
> もう一つはハンス・クルークから。彼もまた世界的に有名な動物学者で肉食動物の行動を専門にしている。クルークはヨーロッパで、オオカミによる人間の捕食にまつわる話を調査した。それは北アメリカとはまるで違う種を扱っているようだった。北アメリカに生息するオオカミは臆病で、人間との接触を避ける(アラスカの小さな村では、つながれたそりイヌを好んで食べるという例外はあるが)。一方、ヨーロッパのオオカミは、中世以前から現代まで、それとは正反対の記録を残していたのだ。

>玄関先のオオカミ
> ヨーロッパに生息するオオカミは,雌が子どものために余分の食物を求める夏にとりわけ人間を襲う(注2)。

>先に登場した動物学者ハンス・クルークは、一九九〇年代にベラルーシ(ロシアに隣接し以前はソビエト連邦に含まれていた共和国)でミンクの調査をしていた。クルークは調査地に着くやオオカミの捕食にのめり込んでしまったという。最初の事故の話が飛び込んできた。森の中の荷馬車道を歩いて家に向かっていた地元男性が失踪したらしい(ベラルーシのへんぴな村にあるモーター付き車両はトラクターだけで、自家用車は実質的に存在しない)。この人はついぞ家に戻らなかったにもかかわらず、彼の身に何が起きて,なぜ消えてしまったのか、取り立てて問題視されなかった。東ヨーロッパのこの小さな村では、オオカミが人を食べる、ただそれだけのことだったのだ。その二か月前には木こりが姿を消したと思ったら、体の一部がオオカミの足跡とともに発見されていたらしい。そして、一、二週間前にも、放課後に居残りさせられて下校時間が遅くなった小さな女の子が家にたどり着かなかった事件があったそうだ。白い雪の上に、血にまみれた娘の頭部を見つけたのは父親だった。そばにはオオカミの足跡も残っていた(父親はこのあと教師を撃った。この教師による娘への罰が事実上の死刑宣告も同然に映ったのだった。日が暮れてから子どもを一人で家に帰らせるという危険な状況に置いたのだから)。
> ヨーロッパの片隅でいったい何が起きていたのか。クルークはこの問題を追い、記録文書を見つけ出して驚いた。オオカミによる捕食だった。これが数世紀にわたって起きていたのだ。しかも東ヨーロッパの片隅だけの話ではなかった。クルークの故郷オランダ南部でも、一九世紀にオオカミが人間の子どもを大量に補食していた。オオカミによる相次ぐ襲撃を受けたのは、一八一〇年〜一一年にかけて。一二人の子どもが亡くなり、大人子ども合わせて五人がけがを負っている(死亡者は全員が三歳から十歳までの子ども)。クロアチアの親戚を訪ねたあの学生がほのめかしたとおり、ヨーロッパの歴史ではオオカミによる人間の捕食が続いていたのだ。北アメリカに住む人間には驚きだ。死の原因が腹をすかせたオオカミだなんて思いもしない。クルークもこの点について次のように見ている。

>  これらの事例は、私がたまたま訪れた土地やその近くの村で最近起こった出来事だ。統計的なデータは誰も集めておらず、 当局も関知していなかった。しかし私は、ベラルーシやロシアの果てしなく続く荒野でこういった事態が、これまで怪しげな新聞記事に載る以外はいっさい伝えられてこなかった事態がどのくらい生じているのか、疑問を抑えきれなかった。……このあたりのことをよく知っている科学者が、オオカミによる襲撃は決してまれな出来事ではないと教えてくれた。 ベラルーシやロシアにはオオカミがたくさんいる。オオカミによる殺人が西側では疑いの眼で見られていることを、彼の地で暮らす人々が知れば驚くだろう(注3)。

> この引用部分はとても説得力があると思う。遠く離れたアフリカの荒野やインドのどこかで今も人間が大型でどう猛な動物に襲われている、この事態ならば西側の人間でも理解できるかもしれない。だが今日のヨーロッパで「今まさに起こっている。厳然たる事実である(注4)」と断言できるとは、衝撃そのものだ。
>。

 肉食動物を専門とする動物学者クルークは、夏の急上昇に重要な意味があると気づいた。オオカミは春先に子どもを産み、最初の数か月は母乳だけで育てる。四か月ごろになると母乳以外の補助食として固形物が必要になってくる。記録されていた殺害のほとんどが群れではなく、単独のオオカミによるものだった。これは、雌が育ち盛りの子どもに食べ物を与えているという別の仮説とも論理的につながる(注5)。子どものために余分な食べ物をもって帰らなくてはならないという圧力から、オオカミの雌は小さくて弱い獲物を探し求め、襲いかかるようになるのだ。これは、子どもだけが選ばれて殺されていたという状況によっても支持される。たとえば牛飼いの子どもがよく殺されたが、牛のほうは手つかずで残されていた。クルークはオランダにも目を向けた。すると状況はほとんど同じで、オオカミに食べられた子どもの数は夏の数ヶ月で急増していた。クルークの調査に先立つこと三〇年、歴史家で博物学者のC・D・クラークが中央ヨーロッパでオオカミによる死亡記録を調べあげ、彼もまた、犠牲者のほとんどが子どもだと気づいていた。クラークはフランスのジェボーダン地方で三年間(一七六四〜六七年)にとくに注目した。フランス中部の比較的狭い一帯で一〇〇人(大半が子ども)がオオカミに襲われ食べられていたのだ。このオオカミ(人間が最終的に殺して調べた)は雄と雌で、平均的なヨーロッパ亜種よりも大きかったという。クラークは、これはオオカミとイヌの雑種第一世代で、極端な雑種強勢が現れていたのではないかと考えた。
> 話は第三章に戻るが、一九九六年、いつもは穏やかな『ニューヨークタイムズ』の第一面に「人食いオオカミと闘うインド」という見出しが載ったことを取り上げた。インド北部の州、ウタール・パラデシュで村人たちがオオカミの群れに猛襲を受けていることを伝える記事だ。(注6)この地方では、一九九六年から九七年にかけての六か月間で合計七六人の子ども(一〇歳以下)がいなくなっている。死因はすべてオオカミだ(一八七八年には六二四人がオオカミに殺されたという英国当局の記録がある)。『ニューヨークタイムズ』に載った、オオカミの子どもを盗む村人の記事に刺激されてか、インドの自然保護団体は次のような説明をしている。インドに残存しているオオカミのほとんどは野生生物保護区の外にいて、そのような場所では、貧しい農民と簡単に衝突してしまう。オオカミに毒を盛ったり、オオカミの子どもを殺したりするのは違法なのだが、現実には日常的に行われている行為である(注7)。

> なぜ、単一の種による捕食が二つの大陸で正反対なのか、筆者はこの解けない疑問に何度も何度も戻り続けた。ハンス・クルークもこの点には苦労している。
> 北アメリカではオオカミが人間を襲うことはまずない。これは複数の専門家筋によって確認されている。情報の不足などではなく、事実に違いない。ヨーロッパにおける最近の状況とは著しく対照的だ。ヨーロッパは赤ずきんちゃんのお話が生まれた地でもある。あの物語は実際に起こった恐ろしい、さほど珍しくもない出来事に基づいているのだ。ヨーロッパ(アジアも)のオオカミが北アメリカのオオカミとこうも違う行動をする理由は、いまだに分かっていない。だがデータからは、オオカミが人間の、とくに子どもの常習的な捕食者だった(そして今なお)ことははっきりとわかる(注8)。(p.123-130)
>注  >参考文献

 
「じゃあ,日本には北米のオオカミを導入しよう」と言われても困りますが……

 

大ヒットしたユヴァル・ノア・ハラリ のサピエンス全史ですが,その中の「ホモ属は食物連鎖の中ほどに位置を占め、ごく最近までそこにしっかり収まっていた」という記述に衝撃を受けた人が少なからずいたことに逆に衝撃を受けました

この本はサピエンス全史の10年以上前に書かれたものですが,著者のドナ・ハートとロバート・サスマンは(タイトル通り)「ヒトは天敵に捕食されながら進化してきた」という当たり前をきちんと議論しています


著者はこの本のp.321-325で,「初期人類の生態モデル」としては近縁なチンパンジーなどよりもベルベットモンキーやカニクイザルなどのオナガザル科の「雑草種」の方が相応しいと主張していますね

>最古の祖先の進化に関する説では、サバンナという乾ききった環境の重要性が強調されることが多い。ところが化石記録に従うと二〇〇万年前まではサバンナは初期人類の主要な生息地ではなかったようだ。アフリカの気候は、一二〇〇万年前から五〇〇万年前にかけて徐々に乾燥化し、この間に赤道直下の熱帯林はまちがいなく減少していった。その一方で森林と隣接するサバンナとの間に移行帯という領域が著しく広げられてもいた。アフリカ東部の大地は三五〇万年前にはまだうっそうとした森林地帯に覆われていたが、一八〇万年前ごろには低木や草原の広がる乾いた生息環境になりつつあった(注33)。こういった移行帯でまさに、初期ヒト科の行動と身体構造に変化が現れだしたのである。この時代のヒト科の化石といっしょに見つかる動植物の化石から、初期ヒト科はいろいろな環境が入り混じったモザイクのような生息地で生きていたことが分かる(モザイクとは、生態学的に多様で、季節によっても年によっても植生が変化するという意味)。また、化石発掘現場のほとんどに、川や湖といった何かしらの水源が含まれている。モザイク状の生息環境とは、密生した森や、木がまばらになる開けた森、低木林地、草原を含むような場所だった。したがって、最古のヒト科は、周辺に位置する変化に富んだ環境、あるいは森と草原それぞれの境目にかかわっていたようだ。移行環境に適応した種を「周辺種」という。また、不安定な新しい環境にすばやく広がり、コロニーをつくる能力があることから、「雑草種」とも呼ぶ。太古の時代に広がりつつあったこれらの周縁環境を、ヒト科は上手く利用し始めたらしい。密林にうまく適応した兄弟種である類人猿との競争を少なくし、兄弟共通の祖先種が占めていた生態的地位を、それより狭くて重なりの少ない二つの適応地帯に分け合ったようだ(注34)。

>霊長類のなかには境界の環境に本質的に適応している種がいくつかいる。それらの種もまた、変化する環境をうまく利用している。アフリカに生息するベルベットモンキーやアジアに生息するマカク、ラングールがそうだ。生息圏は重ならず、いずれも人間以外の現生霊長類のなかでは最も広く分布し、個体数も多い。ベルベットモンキーはアフリカで一番良く見られるサルで、川辺の林の一つ一つにベルベットの群れの群れがいるともいわれている。マカク属も、アジアでは人間以外の霊長類では最大の地理的分布を誇る。現在、アジアに生息するマカク種の多くが絶滅の危機似に瀕しているなかで、上手に生き延びている集団は境界に適応した種だ。カニクイザルは人間の集落近くで作物を荒らし、インドのアカゲザルは寺院や村の近くで見られる。ラングールのなかでも最も地上性を示す種ハヌマンラングール(インドの神聖なサル)もまた、人間との接触に成功した周辺種だ(注35)。特定の生態的地位が特定の行動レパートリーを生み出す。こう筆者は考えている。それに対して、遺伝子配列が近い二つの近縁種ほど、行動が似かよってくると主張する人もたくさんいる。そう信じるのならば、遺伝的に人間に最も近いチンパンジーボノボが、明らかに人類の祖先の一番の手本となる。しかしながら筆者と考えを同じくする、つまり特定の場所に住んでいるがゆえに特定のやり方で生きてゆかねばならないと考えるならば、チンパンジーボノボは除外しなければならない。初期人類の最高のモデルとなるのは、まちがいなく周辺種だ。われわれ人類は熱帯雨林に生きる生物ではなかった。いとこにあたるチンパンジーボノボとは違う。人類は森の周辺で暮らす場当たり的な行動をする生き物で、そういった土地では二足歩行が強みだった。

>人類最古の祖先の行動特性を推測する場合、根拠として使える最高の霊長類モデルは、同じような周縁環境に生息する現生霊長類種だと筆者は考える。該当する種はとてもたくさんいる。マダガスカルワオキツネザル、アフリカのベルベットモンキーとヒヒ、アジアのアカゲザルカニクイザル、いずれも樹上と地上の両方でかなりの時間を過ごす周辺種だ。また、すべて雑食動物で、四足歩行ながら状況に応じて実にさまざまな移動様式をとる。アカゲザルカニクイザルは周縁環境で集団をつくるのがとりわけうまい。この二種が属するマカク属は、人類がアジア大陸に到達する前にこの大陸全体に広がっていた。ホモ・エレクトスがアジアにたどり着いたのが一八〇万年前。このころには、ヒト科はもはや周辺種ではなくなっていたので(人類の祖先は現代に近くなるほど開けた環境を利用していた)、マカクを追い出すことはなかった。かつて人類の祖先がどのように生きていたのかを再現するには、この真の「雑草種」、マカクこそが優れたモデルである。

>注33-34 Conroy, G.C. 1990 Primate Evolution. W.W. Norton & Company.
Conroy, G.C. 1997 Reconstructing Human Origin: A Modern Synthesis. W.W. Norton & Company.
>注35 『ヒトの行動の起源─霊長類の行動進化学』,アリソン・ジョリー,ミネルヴァ書房 (1982/05)

  

上記の説明の理解のためには,狭鼻猿類の系統関係についての理解が必要かも知れません

まず,狭鼻猿類には
1.ヒト上科[テナガザル科とヒト科(オランウータン類と,ヒトやチンパンジー等のアフリカ類人猿)]と
2.オナガザル上科オナガザル科(オナガザル亜科【オナガザル族《オナガザル属,サバンナモンキー属…等》とヒヒ族《ヒヒ属,マカク属…等》】とコロブス亜科【コロブス属,リーフモンキー属…等】]
という2つのグループがあります

エジプトの古第三紀の地層から発見された原始狭鼻猿類(プロプリオピテクス)の歯はヒト上科に似た歯牙形態を持っていて,オナガザル上科の二稜歯性の大臼歯の方が進化的で,ヒト上科のY5型の方が原始的だと考えられています

> 1)ファイユーム[Faiyu^ m]の原始狭鼻猿類
> エジプトの首都カイロから南西にあたるファイユーム盆地では始新世後期から漸新世前期の地層から幾種類もの霊長類化石が見つかっている(Simons and Rasmussen, 1994; Simons, 1995)。そのなかでAegyptopithecus をはじめとするプロプリオピテクス科は歯牙の全体的な形態の類似からかつては原始的な類人猿と考えられていた(Simons, 1967; ル・グロ・クラーク, 1983)(歯牙以外の点では現生類人猿には似ていなかったが)。これは,ヒトに近いほど何でも「進んでいる」という思い込みがあったことに影響されたものであるが,いまでは歯牙形態の面では二稜歯性(bilophodont)大臼歯をもつオナガザル上科(旧世界ザル)の方がより特殊化しており,それにくらべるとヒト上科(類人猿)はより原始的な状態にとどまっていると考えられている。したがって,化石のなかに,一見類人猿に似た歯牙形態をもつものが出てきても,必ずしも厳密な意味でヒト上科と呼べるとは限らない。
(國松 豊(2002)ヒト科の出現―中新世におけるヒト上科の展開―.地学雑誌Journal of Geography111(6) 798―815) 

 

私たちはどうしても「ヒトに近い方が進化的であるという先入観を持ち易いのですが,実際は逆でオナガザル上科の方が進化的だということです
二稜歯は果実食への(二次的には葉食への)適応で,さらにオナガザル亜科では頬袋が発達していますね

オナガザル上科でも中期中新世のヴィクトリアピテクス科では二稜歯はまだ完成途上にあり,オナガザル科で完成する。二稜歯は,もともと葉食性への適応とされてきた。現生の旧世界ザルで,二稜歯は果実食においても葉食と同様にうまく機能しているにもかかわらず,起原的に葉食への適応であるとみなされてきたのは,現生旧世界ザル(オナガザル科)のうち葉食性のつよいコロブス亜科が果実食性のつよいオナガザル亜科にくらべ,より原始性をとどめているとみなされていたからである。しかし,大量の化石がえられた最古の旧世界ザルであるヴィクトリアピテクス科のヴィクトリアピテクスは,葉食のコロブス亜科より果実食のオナガザル亜科に類似する点が多いことがわかり,二稜歯の進化を果実食への適応とみる見解がだされている[1]。

オナガザル上科に進化しなかった真正狭鼻類の一部で尾が消失し,狭義のヒト上科,すなわち類人猿とヒトの祖先になった。
> オナガザル科のうちコロブス亜科では胃がくびれて分室化しているが,オナガザル亜科は頬袋をもつ。コロブス亜科の胃は前胃で植物性繊維を微生物によって分解する,葉食への適応である。オナガザル亜科の頬袋は相対的に“貴重な”食物である果実をすばやく口にいれて,他者に奪われないように機能する。所有や貯蓄の萌芽をになう器官といえなくもない。あるいは,種内の採食競争よりも捕食者への対策として,素早く頬袋につめた食物を安全な場所で咀嚼するために進化したのかもしれない。
>[1] Benefi t, B.R. (1999) Victoriapithecus: the key to Old World monkey and catarrhine origins. Evol. Anthropol., 7(5): 155-174. (霊長類進化の科学.京都大学学術出版会. (2007)

 

原始的なヒト上科よりも進化したオナガザル上科の方がタンニン等の植物の二次代謝産物に対する耐性や分解能力が高いことが知られています
つまり,オナガザル上科はタンニンを大量に含んだ葉や未熟な果実も餌資源として有効に利用できるということなので,「同じ環境」であっても多くの個体数を維持することができたということですね
中新世にユーラシア大陸の各地まで分布を広げていたヒト上科がその後,オナガザル上科との競争に破れて取って代わられていったのではないかという説があります
 
>しかし,時代をさかのぼると,中新世においては,類人猿は現在よりもずっと広範囲で繁栄していた。彼らは中新世前期までにはアラビア半島からアフリカ南端まで分布しており,中新世中期から後期にはさらにヨーロッパや南アジア,中国などユーラシア各地に棲息域を広げていた。ところが,中新世後期もなかばを過ぎると,類人猿の化石は非常に少なくなり,鮮新世に至ってはいまのところ類人猿化石は皆無に等しい。更新世になると,中国南部や東南アジアでオランウータンやテナガザルの化石が若干出土しているが,アフリカのゴリラやチンパンジーなどの化石は,はっきりしたものは何も見つかっていない。かわって各地で台頭してくるのがオナガザル上科の霊長類(旧世界ザル)であり,そのまま現在の状況に至るのである。
(國松 豊. ヒト科の出現 : 中新世におけるヒト上科の展開.地學雜誌 111(6), 798-815, 2002)
>この総説は,中新世以降のアフリカにおける「ヒト上科」(正確には,広くオナガザル上科以外の狭鼻類:非オナガザル狭鼻類)の衰退には,オナガザル上科との競争が影響したという仮説の検討を行った。化石記録の見直しでは,後期中新世の初頭までは,オナガザル上科の放散も,非オナガザル狭鼻類の衰退も認められない。オナガザル科の放散と非オナガザル狭鼻類の衰退は,おそらく同じ時期(1000~700万年前:10–7 Ma)に起こったと考えられる。10 Maまでに森林性のコロブス亜科と(おそらく)オナガザル亜科が現れ,未熟果も消費可能な果食者として,非オナガザル狭鼻類の(潜在的)競争者となった可能性も支持される。r戦略をとったオナガザル科は,後期中新世以降の環境悪化の下では,K戦略者だったと考えられる大型の非オナガザル狭鼻類よりも有利な立場に立ったであろう。
(中務 真人・國松 豊.アフリカの中新世旧世界ザルの進化:現生ヒト上科進化への影響. Anthropological Science (Japanese Series) 120(2), 99-119, 2012 )

 この中新世のヒト上科の中には,オレオピテクス(900~700万年前(中新世後期)のイタリア西海岸トスカナ地方の褐炭坑(湖成層)やサルデーニャ島の河成層)のように,直立二足歩行をしていたと考えられる動物までいました
オレオピテクスは(頭蓋や歯列の形態から)中新世の中~後期にヨーロッパにいたドリオピテクスに近縁で島嶼性の環境で特殊化したようです
(Moyà-Solà, S. and Köhler, M.(1997):The phylogenetic relationships of Oreopithecus bambolii Gervais, 1872. Comptes Rendus de l'Academie des Sciences, Series 2A: 324.141-148.)

オレオピテクスにはドリオピテクスやチンパンジーやテナガザルにはみられない「ヒトのような」腰椎の前湾がみられること,
恥骨(pubis)の形態がアウストラロピテクス・アファレンシスに類似していること,
ホモ属に匹敵するほど発達した坐骨棘(ischial spine)(坐骨体の後縁の上部にある,後内方に突出する三角形の棘)がみられること等,直立二足歩行の特徴があります(Köhler, M. and Moyà-Solà, S.(1997):Ape-like or hominid-like? The positional behavior of Oreopithecus bambolii reconsidered. Proceedings of the National Academy of Sciences, USA, 94: 11747-11750. )
大腿骨遠位(distal femora)の形態も,垂直登りに適応したオランウータンやテナガザルの場合は,内側顆(medial condyle)がより高くなっていることによって大腿骨が目立つほど傾斜している(極端な内反膝genu varum:O脚)のに対して,オレオピテクスの内側顆と外側顆の大きさはほぼ等しく,二足歩行に適応したアウストラロピテクス属やホモ属のわずかな外反膝(genu valgum)(X脚)と似ています(Köhler, M. and Moyà-Solà, S., 1997)
また,以前は「チンパンジーのような」と記述された足 まず,チンパンジーの足は第3中足骨(third metatarsal: Mt3)の向きが足の長軸とほぼ平行であるのに対して,オレオピテクスの場合は,長軸は第1中足骨と第2中足骨の間を通っています

さらに,オレオピテクスの第2中足骨の基部は,第1,第2,第3楔状骨(all cuneiforms)と第3中足骨に挟まれて固定されています
これらの特徴は,オレオピテクスの方がより足の内側で力を伝えていることを示しています
また,オレオピテクスは,踵骨隆起(tuber calcis)(アキレス腱がつく場所)が地面に対してほぼ垂直で,距骨(talus)の内側と外側の高さもほぼ等しくなっています
このことから脛骨(tibia)の軸もほぼ重力方向であることが示唆されますし,これは大腿骨遠位の形態から推定される外反膝(genu valgum)の方向とも一致しています
((Köhler, M. and Moyà-Solà, S.(1997)のFigure 3 )

このようなオレオピテクスの足の特徴は,その可動域や把握能力をかなり減少させています
また,第5中足骨と立方骨の結合部(MtV-cuboid contact)において,立方骨は((ドリオピテクスを含む)他の類人猿のような)外側への傾きを欠いているので,オレオピテクスのこの関節は,「垂直登り」の際に足の外側で力を伝えることができません(Köhler, M. and Moyà-Solà, S.(1997)

また,オレオピテクスの直立二足歩行への適応は,骨盤の形態からも支持されていますし(Rook, L. et.al.(1999): Oreopithecus was a bipedal ape after all: Evidence from the iliac cancellous architecture.Proceedings of the National Academy of Sciences, USA, 96: 8795-8799),ヒトのような手の器用さも持ち合わせていたようです(S. Moya-Sola, M. Kohler, and L. Rook (1999): Evidence of hominid-like precision grip capability in the hand of the Miocene ape Oreopithecus.Proceedings of the National Academy of Sciences, USA, 96: 313-317)

 

上記の解剖学的な特徴についての詳細は忘れて貰ってもかまいませんが,とにかく「900万年前に直立二足歩行への進化をしたヒト上科動物がいた」ということです
ところが,オレオピテクスを含むユーラシア大陸各地のヒト上科は,中新世後期には進化したオナガザル上科との競争に破れて衰退し,鮮新世(500万年〜258万年前)に入るとほとんどが絶滅してしまいました
鮮新世以降の僅かな生き残りがテナガザル,オランウータン,アフリカ類人猿の祖先になったのでしょう
 
客観的にヒト上科とオナガザル上科の現生種を比較してみると,オナガザル上科の方が繁栄しています
オナガザル上科の方がはるかに種数も多く,多様な環境を利用していて,(ヒトを除けば)分布も広いんですね
つまり,ヒト上科は中新世で終わった負け組で,残存種が細々と生き残っているだけなんです
 
ところが,アフリカ類人猿の一部がアフリカを出て,オナガザル上科に奪われたユーラシア大陸の棲息地に侵出しました
つまり,「人類の出アフリカ」は,ヒト上科の敗者復活戦だったとも言えます

 

というわけで,この本の本題に戻ると,初期人類は基本的に森林性の他のアフリカ類人猿と違って,現生のオナガザル科のマカク属のような周辺種だったのだから,「生態モデル」としてはこれらの「雑草種」の方が相応しいということです
 
森林において,餌が豊富なのは樹冠部と林床です
したがって,樹上生活者が時々林床に降りて餌を探し,樹上と林床を行ったり来たりするというのは生存に有利となる場合もあるでしょう
現生のチンパンジーがやっているような生活ですね
  
しかし,ヒト上科はオナガザル亜科に見られるような頬袋を欠いているので,餌を頬袋に入れて安全な場所に移動して食べるということができません
食事は餌のある場所で行うか,口でくわえるか手でもって安全な場所まで運ぶかしないといけないということですね

また,樹上生活に適応してしまったため,地上ではあまり早く走れないという欠点もあります
これは地上で天敵に襲われた場合のリスクが大きいということですね

著者が述べているように,霊長類は樹上性の天敵(猛禽類や樹上性の蛇など)に対しては体を大きくすることで被食リスクを減少させることができますが,地上性の天敵(食肉目など)に対しては大型化によるリスク軽減効果はほとんどありません 
(ゾウやカバぐらい大きくなれば別でしょうが,霊長類はそこまで大きくはなれないようです)
  
さて,この状況でどういう進化の選択肢がありえるでしょうか?
 
まずは,地上性の天敵から逃れるため,なるべく林床には降りないという選択があります
現生のテナガザル科が取っている戦略です
しかし,この戦略では林床の餌が利用できないので,体を大型化することができません
実際,テナガザル科は,最大種でも10-12 kg程度しかありませんね
>体重は最大種であるシアマン(Symphalangus syndactylus)で10-12 kgほど,他の種では5-8 kg程度とヒト上科のなかでは極めて小さいことも特徴的である。
(香田 啓貴, 親川 千紗子: “インドネシア・スマトラ島におけるアジルテナガザルの生息実態調査-音声を手がかりとして”. 霊長類研究, Vol. 22, pp.117-122 (2006) .)
 
もう一つの戦略としては,樹上から積極的に林床に降りて餌を探し,地上性の天敵が表われたら,急いで木に上って逃げるというものです
(現生のベルベットモンキーなどの警告発声等が参考になりますが,これがヒト言語の起源の一つなのでしょう)
アリやシロアリなどの昆虫,落ちた果実や種子などの豊富な餌が利用できれば,体を大型化して,樹上性の天敵のリスクを減らすことができますね
 
もちろん,前者と後者の戦略がはっきりと分けられるとは限りません
いくつかの中間段階もあったでしょう
  
そして,後者の選択を取るモノのうち,林床で安全に採餌するために,樹上での移動能力を多少犠牲にしてでも,「地上で走る」ことができるようになったグループがいたのかもしれません
 
つまり,林床で餌を取っている時に,群れの誰かが天敵の姿を確認したとたん,警告発声が上がり,一目散に近くの木まで走って上って逃げていく,というイメージですね

逃げ遅れた個体は食べられてしまいますから,より効率良く,より早く走る,ということが選択された結果,二足による移動が進化していったグループがあったのでしょう
その中の一つがヒトの祖先となったのではないでしょうか?
つまり,選択されたのは「二足歩行」ではなく「二足走行」だったのではないかという推測です

著者は,アウストラロピテクスにおいても,肉食獣に対しては木に上って難を逃れていたのだろうと推測しています
実際,アウストラロピテクス・アファレンシスの有名な個体「ルーシー」も足より手が長く(アルディピテクスほどではないかもしれませんが)木登りも巧みだったと考えられています
また,アルディピテクスには,腕渡りの形跡がないそうなので,樹上でも(現生のオランウータンのように)積極的に二足歩行をしていた可能性もあります

 

そういえば,「色のふしぎ」と不思議な社会で紹介されていた川村正二教授の仮説は,初期人類の進化の過程では獲物である昆虫や小動物にも,天敵である肉食獣にも カモフラージュされているものが多かったから,カモフラージュを見破る能力が高い2色型色覚にも利点があり,狭鼻猿類の中では例外的に色覚多型(2色型や変異3色型,いわゆる赤緑色盲色弱)が多くなったというものでしたね
  

ハンター&ハンティッド―人はなぜ肉食獣を恐れ、また愛するのか

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「ハンター&ハンティッド―人はなぜ肉食獣を恐れ、また愛するのか 」(ハンス クルーク著)

この本ではヒトが肉食獣に襲われてきた歴史が数多く紹介されています
 

日本にオオカミを再導入しようとしている日本オオカミ協会さんは「オオカミは人を襲わない」と主張されていますが,本当かよっていう話です
 
仮に日本にオオカミを導入したとしても,「オオカミに喰われる」事故数が交通事故を上回ることはないでしょうし,プールや海で溺れるリスクと比較しても決して大きくはないだろうと想像できます
 
しかし,この「オオカミに喰われる」事故は,地域的にも時期的にも均等に起こるわけではないんですよ
「ヒトは食べられて進化した」(ドナ・ハート 著 ロバート・W・サスマン 著)でも紹介されていたエストニアの記録が,この本の中でより詳しく紹介されていて,ルター教会の記録によれば,オオカミによる事故のおよそ3/4は「エストニア北東部のペイプシ湖近くの足るタルトゥマ地方」で起こっています
>死傷事故は極めて散発的な起こり方をし,オオカミの襲撃には明らかな大発生が見られる。たとえば、一八〇九年〜一八一〇年と一八四六年にオオカミによる捕食の大きなピークがある。1つの教会だけでも、一八〇八年から一八五三年のあいだに四八人の子供が殺されているが、そのうち三六人は一八〇九年に殺されていた。(p.114-115)
 
この「タルトゥマ地方の一教会区」の具体的な場所や面積は分からないのですが,それでもせいぜい人の足で一日でいける範囲でしょうし,人口だってたかが知れているでしょう(当時の人口は,エストニア全体でも30万人以下でした)
 
そんなさして大きくない集落で一年で36人もの子どもがオオカミに喰われたとしたら,その前後何年も事故がなかったとしても「恐怖」は長く残るでしょうし,オオカミによる事故のなかった地域にもその「恐怖」は伝わるでしょう
 
ヨーロッパにおいて 「狼と七匹の子山羊」や「赤ずきん」にみられるような
「オオカミに対する恐怖」が形成されたのは,こういう理由ではないでしょうか?
(ちなみにこの2つが東アジア起源の同祖の話だという説がありますが,系統学的な分析によって否定されています)
>この物語は東アジアで生まれたとする説があります。そこから西に広まりましたが、西に広まる過程で、2つの異なる物語、「赤ずきん」と「狼と七匹の子山羊」に分かれたというのです。
>主流の説は、2つとも中国の伝承に由来するというもので、中国の伝承に両方の物語の要素が含まれることがその根拠です。
>しかし私の分析では、東アジアのバージョンは起源ではないという結果が出ました。もし東アジアの伝承が起源なら、それらは「赤ずきん」と「狼と七匹の子山羊」の古い原型バージョンに似ているはずですが、中国の伝承はむしろ現代バージョンのほうに近いのです。例えば、東アジアの物語には、「あなたの目はなんて大きいの!」という被害者と加害者の有名な会話のバリエーションが含まれます。しかし、私が行った「赤ずきん」前史の再構築では、この会話は比較的最近になって登場したことが示唆されています。(系統学で見る「赤ずきん」のルーツ 2013.12.02. ナショナル ジオグラフィックニュース)

  
また,「ニホンオオカミは人を襲わない」と言う人もいます
例えば,柳田國男は「古くから日本人とオオカミとの関係は友好的だった」という内容を書いています

>  人を咬み害するというふ點も、必ずしも狼固有の生き方では無かった。支那でこそ虎狼は同列の兇猛となつて居る、我々日本人が平和なる約款の下に、所謂大口真神と交際して居た期間は久しいもので、其餘波はなほ現代に及んでいる。(P.431,「狼のゆくへ」『定本柳田國男集 22』(筑摩書房1970)

 

でも,実際には日本でもオオカミに襲われた人の記録は昔からあります
再導入したときのリスクを社会的に受容できるかというとかなり難しいでしょうね
 
平岩米吉は「狼害の記事が少ない」ことと「狼害が少ない」ことをすり替えて,「〜すぎない」「わずか」等と印象操作しています
>  802年から1034年まで、約230年の間に、狼の記事は12件にすぎない。約二十年に一件の割合である。しかも、じっさい害をしたのは、わずか4件で、被害者は女と子供がおもである。(P.86,狼―その生態と歴史. 平岩 米吉 (著)
 
でも,普通に考えて狼害の記事が少ないのは当たり前です
オオカミが宮中に入り込んで人に害をなしたり,有名な神社に現われて奇怪な行動をしたりしない限り,国史にはまず載らないんですから
狩り易い女子供が狙われるのは当然として,オオカミに襲われている記録が確かにあるのに,「わずか4件」→「狼害の僅少」と狼害記事の少なさを狼害の少なさにすり替えて,「オオカミは人を襲わない」論に繋げているんですよ
 
>もっとも、これらは朝廷を中心とした都市だけのことで、地方の村落では、これと同様ではなかっただろう。ただ、いずれにせよ、狼害の僅少であったことは事実のようである。(P.86,狼―その生態と歴史. 平岩 米吉 (著)
 
以下は平岩が挙げている狼害の例なんですが(()内はページ数),これで記録が少ないから狼害も少ないはずだというのは無理がありますよね
 
851年、神主の家に狼侵入、13歳の童子を喰った。太神宮雑事記(P.85)
886年、賀茂神社のあたりの狼が人をかみ殺した。三代実録(P.86)
957年、学習院北町で狼が3人の女をかみ殺した。日本紀略
旅人が狼に食い殺され、庄屋が「ヤレヤレまた喰われたか」(注・芝居の言葉)(P.134)
1749年、農夫は、耕作に出て運悪く殺されてしまった。(P.140)
8歳の女の子が逃げ遅れ、兄は引き返し鎌で狼の眉間を打ち、狼はくわえていた女の子をひとふり振って捨てると、今度は兄の頬に食らい付いてきた。(P.141)
1769年、狼が来て夫を噛んだ。この狼は前にも多くの人畜を害していた。(P.141)
1788年、11歳の亀松は、狼に襲われ重傷をおった父親を救った。(P.145、224)
1799年信州上諏訪、狼が友人に食いついている。次郎兵衛は石で狼の背を打ったが、狼は次郎兵衛の目の下を噛み裂き・・、血だるまになり卒倒、友人の屍骸には頭も皮も肉もなかった。(P.148)
1833年飛騨、夜、孫の6歳の娘を屋外の便所に連れて行こうとしたとき狼が孫に飛びかかろうとした。孫をかばった老婆は左腕を噛まれ、助けにきた娘の肩口に食いつき。(P.150)
1688年私市村、19歳の女子を食い殺し16歳の男子に重傷を負わせた。(P.168)
1699、1700年前田貞親の手記は、連日、狼害の記事で埋められていた。被害者は3~7歳の幼児から、65歳の老婆にいたり、12~14歳の少年が最も多く、婦人も狙われやすかったようである。被害の状況は「狼食い殺し候」というのが多い(P.213)
1702年信州高島藩日記、6月4日、8歳女児喰い殺さる。
1702年信州高島藩日記、6月22日、狼は息子12歳をくわえ山林に遁走。2ヶ月の間に16人の男女が食い殺されたと言う。(P.216)
1709年尾張藩、3月中に狼に食われた人24人、16人死、8人手負い。(P.221)
1710年尾張藩、8月4歳の少女狼に食いつかれ、疵を受ける。(P.221)

  

シカやサルを狩るオオカミがヒトだけは襲わないなんてあり得ないわけで,オオカミにとってはシカもサルもヒトも狩りに成功すれば食料です
自分たちだけ食物連鎖の鎖から抜け出した気分になっているのは尊大な人間の思い込みでしょう

  
オオカミを絶滅させたイギリスでも,19世紀初頭に狩猟獣としてオオカミを野に放そうという計画があったのですが,近隣住民の反対で断念しました
(志村 真幸.2006.ヴィクトリア朝期イギリスにおけるオオカミ絶滅の問題.ヴィクトリア朝文化研究 (4), 23-36)
 
実際に「オオカミの再導入」を行ったアメリカでも必ずしも成功しているとは言えませんオオカミの再導入 - Wikipedia

  
北海道の知床半島(約812平方km)にオオカミを再導入する計画もあったのですが,
米田政明の見積りでは環境収容力からしても知床は狭すぎて再導入したオオカミの管理は困難で,家畜への被害も予想されますし,人身被害のリスクも無視できないということです
(米田政明.2006.知床に再導入したオオカミを管理できるか..知床博物館研究報告27, 1-8)