江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか (NHKブックス)

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江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか (NHKブックス)

 

江戸時代の前半は経済成長期(新田開発で耕地面積が拡大し,人口も増加),後半は停滞期(耕地面積,人口ともに微増)というのが全体的な歴史の流れですね 

よく言われる「江戸時代は持続可能な循環社会だった」というのが本当かというのがこの本のテーマです

確かに新田開発によってこれ以上開発できないところまで水田の面積を増やした(だから後半期は停滞した)のが江戸時代だったとすると「本当にエコだったのか?」というの問いは自然に思えます

 

江戸時代の後半になると,耕地面積が増えない中でなんとか収量を増やすために肥料が多投されるようました

金肥を買える百姓と買えない百姓,牛馬を飼えると飼えない百姓との間に格差が拡がることにもなりました

金肥を多く入れたり,牛馬を使って耕したり,その糞を厩肥として投入したりした方が収量は増えるのですが,その負担に耐えられない百姓もいたということです

また,肥料を多投した結果,メイチュウやイネツトムチなどの害虫やイモチ病などの病気が拡がることにもなりました
当時の農書には「病虫害が出た時には肥料を入れれば稲は根をはって立ち直る」と書かれているんですが,これはむしろ逆効果だったようです

害虫駆除方法としては,害虫の誕生でも紹介されていた「虫送り」や注油駆除法がありました
虫送りには実際上の効果はなかったと思われますが,注油駆除法には一定の効果がありました

しかし.注油駆除法に使用する鯨油を購入するコストは百姓たちにとっては負担だったそうです

 

この本の中では,百姓たちの実際の生活を資料を元に紹介しています

例えば,現代の日本ではインディカ米の栽培はほとんど行われていませんが,江戸時代の百姓はインディカ米の一種,「大唐米」(ベトナム原産で宋代に中国に広まった占城米チャンパマイ)を食べていました
大唐米は耕作地として条件が悪いところでも育ち,また,短期間で育つので年貢用の稲の収穫前の時期の藁の供給源としても重要だったようです 

>では、どのような品種の米を食べていたのかといえば、又三郎は、こんな実情を教えてくれる。
> 田に大唐を植れハ、常の米大唐取程取落す物なれ共、秋に早く米に成物故、第一百姓食物の為、第二又百姓秋納につかへさる前に、大唐藁にて家修理・屋根葺為に、御領国の百姓ハ大唐を植る 
> 田んぼに大唐米を植えれば、そのぶんだけ普通の米の収量が落ちる。それでも、第一に秋に早く収穫できるので「百姓食物」となる、第二に秋の収穫で忙しくなる前に、その藁で家を修理し屋根を葺くことができるため、加賀藩の百姓は大唐米を植えるものだ、と。 百姓が食べていた米は、大唐米であった。今では聞きなれない大唐米とは、「唐法師」「唐干」などの名称でよばれた、インディカ型の赤米のことをさす。粒が長いところに特色があり、耕作地として条件の悪いところでも短期間で育つ。そこで新田を拓くとまずこの品種を作付けし、そのあと新田が耕地として安定すると、いわゆる普通の米への転換がはかられたとみられている。赤米は、新田における稲作のパイオニアとしての役割を果たしていたのだ。ただし、おいしくないため、一般的には餅類・漢方薬・菓子類などの材料として利用されていたという。加賀藩でも、表1─2から「大唐早稲」「早大唐」「唐干餅」といった大唐米の銘柄が確認できる。江戸中期の十八世紀を中心にみると、粒の短いジャポニカ型は北海道・東北地方および中部山岳地帯などの寒冷地に多く、それ以西ではジャポニカ型と粒の長いインディカ型が共存して作付けされていた。開発期には、百姓が米を食べるがゆえに、作付けされていたのは白い米ばかりではなかったのである。(第一章 コメを中心とした社会のしくみ.江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか (NHKブックス)

 

江戸時代は年貢米の品種も非常に多様で(加賀平野の例で500品種以上),昨期や形質の違いにより,結果的に冷害や虫害等に対する危険分散になっていたようです
逆に,様々な品種の米が混ざってしまう結果,米の品質にバラツキが大きくなるので,大坂での米の買い取り値が下がってしまうという問題もありました
藩の財務を担当する算用場奉行としては米の品質をチェックする方針が出されたりもしたようです
それでも,今と比較すると品種はバラエティに富んでいて,長い芒(ノギ)があってイノシシの食害を受け難い品種(シシクワズ)や穂よりも葉が高く茂るのでスズメの害を受け難い品種(雀しらす)なんていうのもありました

>在来稲に「シシクワズ」という、強靭で長い芒を持つ品種がある。命名の由来は詳らかではないが、こういう芒のある品種はイノシシの食害を受けにくいという。表1─2によれば、『耕稼春秋』のなかには「雀しらす」という品種がある。これは穂の部分より葉の方が高く茂るため、スズメの被害が少ない。要は鳥獣害を防ぐために、芒の有無など、稲の特徴を判別して作付けしていた可能性が高い。その芒の色は、赤・薄赤・黒・白の四種で、白以外の、色のついたものが多かった。(第一章 コメを中心とした社会のしくみ.江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか (NHKブックス)

 

江戸時代の百姓がどのくらい米を食べていたのかについては様々な見解があるんですが,米の生産量と人口から考えてもまったく食べていなかったわけはありません
もちろん,時期や地域によっては稗などの雑穀を常食していたこともあって,当時の農書には「稗を常食している地域の方が長寿」みたいなことが書いてあります

越中国農書『私家農業談』によれば、次のようなメリットもあるという。
>稗を平日食すれハ、六腑を潤し、長寿を得るといへり、越中五箇山ハ水田なき地ゆへ、多く山畠に稗を作りて、稗粥・稗炒粉を以、常の食物とせり、此ゆへにやよりけん、男女とも百歳の齢に及ふ者多し。
>平素から稗を食べれば、六腑(内臓諸器官)を潤し、長寿を得るという。越中五箇山は水田がないので、多くは山で稗を作り、粥や炒粉(炒って粉にしたもの)を常食にしている。これが理由だからか、男女とも百歳まで生きる者が多い、と。(第二章 ヒトは水田から何を得ていたか.江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか (NHKブックス)