ハンター&ハンティッド―人はなぜ肉食獣を恐れ、また愛するのか

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「ハンター&ハンティッド―人はなぜ肉食獣を恐れ、また愛するのか 」(ハンス クルーク著)

この本ではヒトが肉食獣に襲われてきた歴史が数多く紹介されています
 

日本にオオカミを再導入しようとしている日本オオカミ協会さんは「オオカミは人を襲わない」と主張されていますが,本当かよっていう話です
 
仮に日本にオオカミを導入したとしても,「オオカミに喰われる」事故数が交通事故を上回ることはないでしょうし,プールや海で溺れるリスクと比較しても決して大きくはないだろうと想像できます
 
しかし,この「オオカミに喰われる」事故は,地域的にも時期的にも均等に起こるわけではないんですよ
「ヒトは食べられて進化した」(ドナ・ハート 著 ロバート・W・サスマン 著)でも紹介されていたエストニアの記録が,この本の中でより詳しく紹介されていて,ルター教会の記録によれば,オオカミによる事故のおよそ3/4は「エストニア北東部のペイプシ湖近くの足るタルトゥマ地方」で起こっています
>死傷事故は極めて散発的な起こり方をし,オオカミの襲撃には明らかな大発生が見られる。たとえば、一八〇九年〜一八一〇年と一八四六年にオオカミによる捕食の大きなピークがある。1つの教会だけでも、一八〇八年から一八五三年のあいだに四八人の子供が殺されているが、そのうち三六人は一八〇九年に殺されていた。(p.114-115)
 
この「タルトゥマ地方の一教会区」の具体的な場所や面積は分からないのですが,それでもせいぜい人の足で一日でいける範囲でしょうし,人口だってたかが知れているでしょう(当時の人口は,エストニア全体でも30万人以下でした)
 
そんなさして大きくない集落で一年で36人もの子どもがオオカミに喰われたとしたら,その前後何年も事故がなかったとしても「恐怖」は長く残るでしょうし,オオカミによる事故のなかった地域にもその「恐怖」は伝わるでしょう
 
ヨーロッパにおいて 「狼と七匹の子山羊」や「赤ずきん」にみられるような
「オオカミに対する恐怖」が形成されたのは,こういう理由ではないでしょうか?
(ちなみにこの2つが東アジア起源の同祖の話だという説がありますが,系統学的な分析によって否定されています)
>この物語は東アジアで生まれたとする説があります。そこから西に広まりましたが、西に広まる過程で、2つの異なる物語、「赤ずきん」と「狼と七匹の子山羊」に分かれたというのです。
>主流の説は、2つとも中国の伝承に由来するというもので、中国の伝承に両方の物語の要素が含まれることがその根拠です。
>しかし私の分析では、東アジアのバージョンは起源ではないという結果が出ました。もし東アジアの伝承が起源なら、それらは「赤ずきん」と「狼と七匹の子山羊」の古い原型バージョンに似ているはずですが、中国の伝承はむしろ現代バージョンのほうに近いのです。例えば、東アジアの物語には、「あなたの目はなんて大きいの!」という被害者と加害者の有名な会話のバリエーションが含まれます。しかし、私が行った「赤ずきん」前史の再構築では、この会話は比較的最近になって登場したことが示唆されています。(系統学で見る「赤ずきん」のルーツ 2013.12.02. ナショナル ジオグラフィックニュース)

  
また,「ニホンオオカミは人を襲わない」と言う人もいます
例えば,柳田國男は「古くから日本人とオオカミとの関係は友好的だった」という内容を書いています

>  人を咬み害するというふ點も、必ずしも狼固有の生き方では無かった。支那でこそ虎狼は同列の兇猛となつて居る、我々日本人が平和なる約款の下に、所謂大口真神と交際して居た期間は久しいもので、其餘波はなほ現代に及んでいる。(P.431,「狼のゆくへ」『定本柳田國男集 22』(筑摩書房1970)

 

でも,実際には日本でもオオカミに襲われた人の記録は昔からあります
再導入したときのリスクを社会的に受容できるかというとかなり難しいでしょうね
 
平岩米吉は「狼害の記事が少ない」ことと「狼害が少ない」ことをすり替えて,「〜すぎない」「わずか」等と印象操作しています
>  802年から1034年まで、約230年の間に、狼の記事は12件にすぎない。約二十年に一件の割合である。しかも、じっさい害をしたのは、わずか4件で、被害者は女と子供がおもである。(P.86,狼―その生態と歴史. 平岩 米吉 (著)
 
でも,普通に考えて狼害の記事が少ないのは当たり前です
オオカミが宮中に入り込んで人に害をなしたり,有名な神社に現われて奇怪な行動をしたりしない限り,国史にはまず載らないんですから
狩り易い女子供が狙われるのは当然として,オオカミに襲われている記録が確かにあるのに,「わずか4件」→「狼害の僅少」と狼害記事の少なさを狼害の少なさにすり替えて,「オオカミは人を襲わない」論に繋げているんですよ
 
>もっとも、これらは朝廷を中心とした都市だけのことで、地方の村落では、これと同様ではなかっただろう。ただ、いずれにせよ、狼害の僅少であったことは事実のようである。(P.86,狼―その生態と歴史. 平岩 米吉 (著)
 
以下は平岩が挙げている狼害の例なんですが(()内はページ数),これで記録が少ないから狼害も少ないはずだというのは無理がありますよね
 
851年、神主の家に狼侵入、13歳の童子を喰った。太神宮雑事記(P.85)
886年、賀茂神社のあたりの狼が人をかみ殺した。三代実録(P.86)
957年、学習院北町で狼が3人の女をかみ殺した。日本紀略
旅人が狼に食い殺され、庄屋が「ヤレヤレまた喰われたか」(注・芝居の言葉)(P.134)
1749年、農夫は、耕作に出て運悪く殺されてしまった。(P.140)
8歳の女の子が逃げ遅れ、兄は引き返し鎌で狼の眉間を打ち、狼はくわえていた女の子をひとふり振って捨てると、今度は兄の頬に食らい付いてきた。(P.141)
1769年、狼が来て夫を噛んだ。この狼は前にも多くの人畜を害していた。(P.141)
1788年、11歳の亀松は、狼に襲われ重傷をおった父親を救った。(P.145、224)
1799年信州上諏訪、狼が友人に食いついている。次郎兵衛は石で狼の背を打ったが、狼は次郎兵衛の目の下を噛み裂き・・、血だるまになり卒倒、友人の屍骸には頭も皮も肉もなかった。(P.148)
1833年飛騨、夜、孫の6歳の娘を屋外の便所に連れて行こうとしたとき狼が孫に飛びかかろうとした。孫をかばった老婆は左腕を噛まれ、助けにきた娘の肩口に食いつき。(P.150)
1688年私市村、19歳の女子を食い殺し16歳の男子に重傷を負わせた。(P.168)
1699、1700年前田貞親の手記は、連日、狼害の記事で埋められていた。被害者は3~7歳の幼児から、65歳の老婆にいたり、12~14歳の少年が最も多く、婦人も狙われやすかったようである。被害の状況は「狼食い殺し候」というのが多い(P.213)
1702年信州高島藩日記、6月4日、8歳女児喰い殺さる。
1702年信州高島藩日記、6月22日、狼は息子12歳をくわえ山林に遁走。2ヶ月の間に16人の男女が食い殺されたと言う。(P.216)
1709年尾張藩、3月中に狼に食われた人24人、16人死、8人手負い。(P.221)
1710年尾張藩、8月4歳の少女狼に食いつかれ、疵を受ける。(P.221)

  

シカやサルを狩るオオカミがヒトだけは襲わないなんてあり得ないわけで,オオカミにとってはシカもサルもヒトも狩りに成功すれば食料です
自分たちだけ食物連鎖の鎖から抜け出した気分になっているのは尊大な人間の思い込みでしょう

  
オオカミを絶滅させたイギリスでも,19世紀初頭に狩猟獣としてオオカミを野に放そうという計画があったのですが,近隣住民の反対で断念しました
(志村 真幸.2006.ヴィクトリア朝期イギリスにおけるオオカミ絶滅の問題.ヴィクトリア朝文化研究 (4), 23-36)
 
実際に「オオカミの再導入」を行ったアメリカでも必ずしも成功しているとは言えませんオオカミの再導入 - Wikipedia

  
北海道の知床半島(約812平方km)にオオカミを再導入する計画もあったのですが,
米田政明の見積りでは環境収容力からしても知床は狭すぎて再導入したオオカミの管理は困難で,家畜への被害も予想されますし,人身被害のリスクも無視できないということです
(米田政明.2006.知床に再導入したオオカミを管理できるか..知床博物館研究報告27, 1-8)