ボルネオ・ サラワク王国の沖縄移民.ボルネオに渡った沖縄の漁夫と女工

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ボルネオ・ サラワク王国の沖縄移民.おきなわ文庫.ひるぎ社.1994

ボルネオに渡った沖縄の漁夫と女工.ボルネオ史料研究室.2001

 

どちらも同じ著者(望月雅彦)による貴重な史料です
戦前からたくさんの沖縄の農民や漁民が移民していたボルネオ島北部のサラワク王国や英領北ボルネオ(現在のマレーシア連邦サラワク州サバ州)の記録です

 

ボルネオ・ サラワク王国の沖縄移民で描かれているのは,サラワク王国の「日沙商会サマラハン農場」に入植した沖縄移民,24家族,114名の生活です

 

当時,サラワク王国はラジャ三世(イギリス人探検家で初代藩王のジェームズ・ブルックの甥の息子)の治世で,彼は第一次大戦中,イギリスに帰り,サラワクの藩王であることを隠して従軍したりしています
その間にサラワク王国の貿易は行き詰まり,物価が高騰して米不足になりました

元々,サラワク王国には,天然ゴム農園に人手を取られて米作農民が減少した結果,主食であるコメの自給率が低いという問題がありました
それに対して当時の沖縄は,「ソテツ地獄」(主食が水に晒したソテツのデンプンだった)と言われる時代で,10歳前後の子どもが借金のカタに身売りされることが普通でした

米作に習熟した農民を入植させることでコメの自給率を上げたいというサラワク側の事情と,貧困に喘ぐ中で南国で稼いで蓄財したいという沖縄農民の事情が合致し,移民が行われたようです

実際にはサラワク王国での米作はうまくいかず,入植者の多くは天然ゴムやコーヒーを作ることになったのですが……

 

ボルネオに渡った沖縄の漁夫と女工で描かれているのは,第二次大戦前にボルネオ水産に雇用されて英領北ボルネオに渡った漁師と缶詰や鰹節女工,英領北ボルネオ漁業移住団として出漁した漁船員,日本軍占領時にクチンに渡航した関係者の生活です

 

この本の中に面白い記述がありました

沖縄には漁夫が潜水して網に魚を追い込む伝統漁法があり,鰹漁の餌となる小魚を捕っていました
この技術を持った漁民がボルネオに移民し,現地でも鰹の餌取りを行っていました
ところが戦争が始まり,多くの移民が現地徴兵された結果,伝統漁法の技術を持った漁民がいなくなった所では,仕方なく軍からもらったダイナマイトで漁をするようになりました

これが今も各地で問題になっているダイナマイト漁のルーツの一つなのかもしれませんね


また,沖縄からの入植者の中で若者が徴用されると,老漁夫や女工とその乳飲み子たちが取り残されることになりました

戦争末期になると,機銃掃射や爆撃も激しくなり,自給自足のための農作業も滞るようになりました

このままでは全員が餓死するということで,100名以上の大世帯が高原の密林を超える大移動を行い,内陸のキナバル山麓ラナウに避難し,農耕をしながら細々と露命をつなぐうちに終戦を迎えたとあります
当然,機銃掃射や爆撃だけでなく,この大移動の際に命を落とした人も数多くいたようです

現地徴用された若者たちもその多くは「北ボルネオ死の行進(別名『サンダカン死の行進』)に参加し,北ボルネオ東海岸から西海岸への移動中に,マラリアや飢餓によって戦わずして命を落としたのですが,(女性や子どもたちを含む)軍人以外の人たちの犠牲も大きかったということです