ブラッドハンター―血液が進化を語る

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ブラッドハンター―血液が進化を語る.庄武 孝義.新樹社

この本の著者,庄武孝義は11種7000頭の野生猿を捕獲して採血した『ブラッドハンター』の異名を持つタフな生物学者です

 

著者は,アフリカのサバンナヒヒ類(アヌビスヒヒ,キイロヒヒ,チャクマヒヒ,ギニアヒヒ)とマントヒヒの関係について,サバンナヒヒ類とマントヒヒの共通祖先の一部が陸橋を通ってアフリカからアラビア半島に渡り,その後アラビア半島の過酷な環境の中で独自の進化をして(異質な社会構造を形成)マントヒヒになり,その後,最終氷期にできた陸橋を通ってアフリカ大陸に進出したのではないかと述べていますね
(アヌビスヒヒとマントヒヒの分岐は30〜40万年前ですが、属の異なるゲラダヒヒとアヌビスヒヒやマントヒヒの分岐は100〜150万年前です)
 
そして,このアヌビスヒヒ(Papio anubis)とマントヒヒ(Papio hamadryas),ゲラダヒヒ(Theropithecus gelada)とアヌビスヒヒやマントヒヒが野生状態で交雑し,妊性もあることが報告されています
>アヌビスヒヒとマントヒヒの雑種(写真提供:庄武孝義)
>Interestingly, though, Papio beboons do not only hybridise with one another. Dunbar and Dunbar, for instance, noted as early as 1974 that apparently fertile and reproductively successful hybrids can be produced between at least one Papio species and the gelada baboon, in the genus Theropithecus. These two genera are closely related, to be sure, next to one another on most phylogenetic trees of the old world monkeys, but have been distinct lineages for several million years. In addition to Dunbar and Dunbar (1974)'s wild hybrids between the gelada and anubis baboons moreover, Jolly et al. (1997) report hybrids between hamadryas baboons and geladas in the wild, and Markarjan et al. (1974) between Papio baboons and both geladas and rhesus macaques, the baboons' even more distant relatives in the genus Macaca. These so-called "rheboons", however, may not be fertile or capable of attracting mates (Jolly 2001).
>The Biological Species Concept and Hybridisation in Primates

 

上記のヒヒ類の例では,
アヌビスヒヒの群れに入り込んだマントヒヒのオスがアヌビスヒヒのメスと交尾したり,アヌビスヒヒのメスを連れ去ってマントヒヒの群れの中に出戻りユニットを作ったりすることができるのに対して,
マントヒヒの群れに入り込んだアヌビスヒヒのオスがマントヒヒのメスと交尾しようとしても,マントヒヒのメスはマントヒヒのオスの後ろに隠れ、マントヒヒのオスも威嚇して妨害するためほとんど成功しない
というように,その遺伝子交流は非対称です

つまり,
マントヒヒの群れはアヌビスヒヒのオスによる交尾を妨げる「交配前隔離」として働いていますが,
アヌビスヒヒの群れはマントヒヒのオスによる交尾を妨げる「交配前隔離」としては働いていないということです
そして,雑種個体にも生殖能力があり(「交配後隔離」も働いていない),実際に両種の間には遺伝的な交流があったことを示す証拠があります
例えば,マントヒヒ集団の中には「アヌビスヒヒのメスを連れ去ってマントヒヒの群れの中に出戻りユニットを作った」ことに由来するアヌビスヒヒタイプのミトコンドリアDNAが見られます
>エチオピアとサウジアラビアのマントヒヒのミトコンドリアDNA変異
>*庄武 孝義, 山根 明弘, Ahmed BOUG

 

Mayr(1942)の生物学的種概念の定義は「実際にあるいは潜在的に相互交配する自然集団のグループであり,他の同様の集団から生殖的に隔離されている」というものですが,
このように,野外における実際の種の生殖隔離は必ずしも完璧なものではないので、集団として分岐し、種として分化した後でも部分的に遺伝子交流がある場合があります

 

マントヒヒとアヌビスヒヒに見られるような非対称な遺伝子交流をIntrogressive hybridization(浸透交雑)と言います

この浸透交雑は様々な生物に一般的に見られる現象で,
例えば,ヤマトオサムシとクロオサムシの場合,クロオサムシ由来のミトコンドリアがヤマトオサムシの集団内に広く浸透していることが分かっています
 
> ヤマトオサムシとクロオサムシは,本州中部において側所的に分布を接している.また,種間交雑を通じて,クロオサムシ由来のミトコンドリアがヤマトオサムシの集団内に広く浸透している.このような分布と交雑の状態は,以下のような生殖隔離の状態を示唆する:
>つまり,両種間の生殖隔離は,(1)交雑による種の融合を妨げられるほど強い;
>(2)しかし,遺伝子浸透を妨げられるほど完璧ではない;(3)さらに,一方向的な遺伝子浸透をもたらすように非対称である.これらの可能性を検証するため,種間交配実験によって生殖隔離の強さを推定した.
>文献: Takami et al. (2007) Population Ecology 49, 337-346.
生殖隔離の非対称性が遺伝子浸透の方向性に及ぼす影響

 

また,マヤサンオサムシとイワワキオサムシの交雑帯では,採取される個体の交尾器の大半は両者の中間の状態で,かつ変異が非常に大きく,交雑帯の中でも交尾器形態のクラインが認められています
これは(両種の母集団からの個体の補充が続く状況で)交雑帯において様々な組合せの交雑が繰り返されていることを示していますが,
交尾器の折れた雄は10%以上にもなり,膣盲嚢に折れた雄交尾片が残っている雌も観察されていて,交尾形態の差が交雑に負の淘汰を与えていると考えられています(Kubota K 1988 Natural hybridization between Carabus (Ohomopterus) maiyasanus and C (O.) iwawakianus (Coleoptera, Carabidae). Kontyu Tokyo. 53, 370–380.
このように,雑種の適応度が低下する場合は,側所的分布が維持されたり,どちらか一方が絶滅することが理論的に予想されています(久保田耕平. 4章 生殖隔離と種分化  in 節足動物の多様性と系統. 石川良輔 編集. 裳華房 (2008)

 

それに対して,雑種の適応度が低下しない場合は,集団が融合した雑種起源の個体群が生じます

例えば,長野県伊那郡で分布を接するアオオサムシとテンリュウオサムシミカワオサムシの亜種)の交雑帯で採集される個体は,交尾器等の形態は両種の中間ですが,変異は小さく安定しています
地理的障壁(木曽山脈と深い谷)によって両種の母集団からの個体の補充が制限された状況で,雑種個体群内の交配が繰り返され,安定化淘汰を受けた結果,伊那谷天竜川周辺にイナオサムシと呼ばれる雑種由来の集団が生じています(Sota T, Kusumoto F & Kubota K Consequences of hybridization between Ohomopterus insulicola and O. arrowianus (Coleoptera, Carabidae) in a segmented river basin: parallel formation of hybrid swarms. Biol. J. Linn. Soc. 71, 2000c 297–313.
実験的にアオオサムシとテンリュウオサムシを交雑させると,(イナオサムシに酷似した)両者の中間的な形態の雑種が生じ,この交雑個体は両親の種と戻し交雑をする事により稔性を回復します
つまり,オアオオサムシとテンリュウオサムシは雑種個体を通じて部分的に遺伝的に交流することが可能だということです(近縁種相互作用の進化生態学的・分子系統学的解析. 曽田 貞滋.  (年度)1997 – 1998
 
オサムシ類の他にも,キアゲハ類(Papilio属:Sperling & Harrison, 1994)やナナフシ類(Bacillus属:Tinti & Scali, 1995)でも,交雑起源の個体群が知られていますね
  
このように,生物学的種概念の定義は概念的なものであり,
現実の種間の生殖隔離には、いくつもの抜け穴があって、近縁種間で完全な生殖隔離が見られる種はほとんどありません
もちろん,隔離の強度が強ければ強いほど集団は「種っぽく」振舞うのですが,ある集団が「種であるかないか」の線引きは、ある程度主観的にならざるを得ません

>1, BSCの基準のもとで「種」とみなされる前に生殖隔離が完成していなければならないか
>BSC に対する古くからの批判:近縁種間で完全な生殖隔離が見られる種はほとんど無い。
>  外見では雑種に見えなくても、近年の分子分析の発展によって交雑は以前考えられていたものよりもずっと頻繁である。

>著者らの見解
>・ 隔離の強度が強ければ強いほど両集団は「種っぽく」振舞う。「種」のレベルにあるかどうかはそのような Sliding Scale を含む。「種であるかないか」の線引きは、ある程度主観的にならざるを得ない。
http://www.hokudai.ac.jp/fsc/usujiri/chapter1.pdf
http://www.hokudai.ac.jp/fsc/usujiri/youshidl.html
Speciation [ペーパーバック] Jerry A. Coyne (著), H. Allen Orr (著) : Sinauer Associates Inc; illustrated版 (2004/5/28)

 

現生のヒトとチンパンジーの場合は,妊性のある雑種が生まれる可能性は低いと思いますが,(両者の遺伝距離はヒヒ属とオナガザル属間に相当します)
分岐直後であれば交雑した可能性はあります
 
ヒト集団とチンパンジー集団の分岐は650~740万年前とする研究結果が多いのですが,遺伝情報を調べると何度も分岐した可能性があり,最初の分岐から最後の分岐までに最大400万年の開きがあることから、
「いったん分岐したヒトとチンパンジーの祖先が長期間にわたって再び交雑したことによって遺伝子構成も変化した」とする研究もありますね (Nick Patterson, et al.(2006) Genetic evidence for complex speciation of humans and chimpanzees. Nature 441, 1103-1108.)

 

また,非アフリカの現生人類とネアンデルタール人やデニソワ人との交雑の証拠はいくつも見つかってきましたが,
両親はネアンデルタール人とデニソワ人 交雑の初証拠.ナショジオニュース(2018/9/8)
>X染色体におけるネアンデルタール人と現生人類との交雑の痕跡
>オーストラリア先住民のゲノム解読とデニソワ人との交雑

遺伝子の流れの方向性に関してはネアンデルタール人から現生人類の方に起こったと推定する研究があります
(つまり,遺伝子の流れの方向性が非対称だということです)
 
まず,現代の非アフリカ人はサン人よりもヨルバ人に遺伝的に近縁です
もし,非アフリカ人の祖先からネアンデルタール人への遺伝子の流れがあったとしたら,ヨルバ人はサン人よりも非アフリカ人に遺伝的に近い分だけはネアンデルタール人遺伝子と一致するハズですが,実際にはサン人とヨルバ人の間にはほとんど差はないので遺伝子の流れはほとんど一方的にネアンデルタール人から現生人類の方に起こったと推定されているんです
 
>Direction of gene flow.
>A parsimonious explanation for these observations is that Neandertals exchanged genes with the ancestors of non-Africans. To determine the direction of gene flow consistent with the data, we took advantage of the fact that non-Africans are more distantly related to San than to Yoruba (73–75) (Table 4). This is reflected in the fact that D(P, San, Q, chimpanzee) is 1.47 to 1.68 times greater than D(P, Yoruba, Q, chimpanzee), where P and Q are non-Africans (SOM Text 15). Under the hypothesis of modern human to Neandertal gene flow, D(P, San, Neandertal, chimpanzee) should be greater than D(P, Yoruba, Neandertal, chimpanzee) by the same amount, because the deviation of the D statistics is due to Neandertals inheriting a proportion of ancestry from a non-African-like population Q. Empirically, however, the ratio is significantly smaller (1.00 to 1.03, P << 0.0002) (SOM Text 15). Thus, all or almost all of the gene flow detected was from Neandertals into modern humans.
(Richard E. Green, et al.(2010) A Draft Sequence of the Neandertal Genome. Science 328, 710-722.)

 

ネアンデルタール人と現生人類の間の遺伝子の流れの非対称さの原因は分かりませんが,マントヒヒの群れがアヌビスヒヒを受け入れないように,ネアンデルタール人社会が現生人類を排除する障壁として働いたのかも知れません

 

ネアンデルタール人の配偶システムについてわかっていることは少ないのですが.
ミトコンドリアDNA分析の結果から,約5万年前頃のイベリア半島北部のネアンデルタール人社会に夫居制的婚姻行動の傾向が見られるらしいという研究があります
>ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA分析と社会構造
 
「夫居制」自体は現生人類の70%に見られる一般的なパターンですが,もちろん,これはすべてのネアンデルタール人に当てはまるとは限りません
現生人類においては「極端な一夫多妻」「完全な乱婚」は排除されますが,それ以外の様々なパターンがありました(第10章 ヒトの配偶システム.in 進化と人間行動.長谷川 寿一,長谷川 真理子
ネアンデルタール人の場合も環境に応じて社会構造が異なっていた可能性が高いでしょう


ただし,これまで研究は大きく修正される可能性もあります
ネアンデルタール人との交雑はなかったとされていたアフリカ人にもネアンデルタール人の痕跡が残っているとする研究が昨年発表されたからです
ネアンデルタール人のDNA、アフリカの現生人類からも検出 新研究


非対称な交雑といえば,現生人類の民族集団間の遺伝的交流も対称ではありません
ブライアン・サイクスの「イヴの七人の娘たち」と「アダムの呪い」を比べてみると,母系と父系の系統は異なることが分かります

例えば,ポリネシアのラロトンガ人集団のミトコンドリアDNAはほとんど同じで,東南アジアに起源を持つ(いわゆるオーストロネシア人)であるのに対して,Y染色体の約三分の一はヨーロッパ人のものでした
ポリネシアだけでなく,南米(ペルーやコロンビア)でも同様のヨーロッパ人Y染色体の侵入が確認されています
 
ポリネシア人にはヨーロッパの血が流れていた!
> このいらだたしいジレンマが解決したのは、アメリカの研究チームが新しい遺伝子マーカーシステムを開発したときだった。おかげで、Cクラスタアメリカのものか、ヨーロッパのものか、区別がつけられるようになった。その知らせを聞くと、わたしたちはすぐさまあの十個の染色体を検査にかけてみた。そして、決定的な結果を手に入れた。ラロトンガで見つけたCクラスターの染色体は、南米から来たものではない。ヨーロッパの染色体だ! わたしたちが調査したラロトンガ人の約三分の一、最初の入植者ではなく、ヨーロッパの男性からY染色体を受けついでいた。あまりに意外な結果だったので、みんな、なかなか信じられなかった。疑いの余地はない。そのY染色体は、ヨーロッパからやってきた。ポリネシアでヨーロッパ人のmtDNAが見つかったことは、一度もなかった。mtDNAの証拠を見るかぎり、あたかもあの島々にヨーロッパ人が足を踏み入れたことなどなかったかのように見える。ところがY染色体が、まるっきり別の物語を教えてくれた。ヨーロッパ人男性の軌跡が、そこかしこで見つかったのである。

> ヨーロッパ人によるポリネシア植民地化が遺伝学に与えた影響は.世界じゅうでくり返されてきた。いまでは科学者たちも、mtDNAとY染色体のどちらか片方に執着するのではなく、両者をともに分析する利点に気づきはじめている。ヨーロッパの植民地化の歴史とともに、それと似たようなY染色体の繁殖、いや、それ以上の繁殖ぶりが、世界のあちこちで見つかっている。
> 最近ペルーで,自分たちは純血のアメリカインディアンだと考えているパスコとリマの住民にたいする調査が行われた。そこから、彼らの九十五パーセントのmtDNAがあきらかにアメリカインディアンの末裔である一方で、Y染色体の半分がヨーロッパのものであることが判明した。コロンビアのメデリン近郊のアンティオクイアで行われたべつの調査では、Y染色体の九十四パーセントがヨーロッパのもの、五パーセントがアフリカのもの、そしてたったの一パーセントがアメリカインディアンのものであることがわかっている。アンティオクイアはスペインが最初に入植した南米の土地にあり、十六世紀初期に設立された町だ。そこで発見された五パーセントのアフリカ人Y染色体は、奴隷貿易によって大西洋からもたらされたものにまちがいないだろう。その調査対象となった男性たちのmtDNAを分析したところ、九十パーセントがアメリカインディアンの末裔で、残りはヨーロッパとアフリカのものだとわかった。(アダムの呪い.ブライアン・サイクス.ソニーマガジンズ (2004/05))

 

これらの現象は,ヨーロッパ人女性が現地人男性と交雑することがほとんどなかったのに対して,
現地人女性がヨーロッパ人男性を受け入れて交雑が起こったことを示しています