ヒトは食べられて進化した

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ヒトは食べられて進化した. ドナ・ハート 著 ロバート・W・サスマン 著 伊藤 伸子 訳.化学同人

ハンター&ハンティッド―人はなぜ肉食獣を恐れ、また愛するのかでも書かれていたように,ヨーロッパやインドのオオカミはヒトを襲うのですが,この本によると,(理由は分かりませんが)北米のオオカミはヒトを襲わないとされているそうです

> 地元住民がオオカミにおびえているという学生の話はとくに,筆者二人とも頭を悩ませた。今もって解決できていない二つの事実に関連していたからだ。二つの事実ともに出所は確かだ。一つはオオカミの生態と行動に関してはまちがいなく世界的権威であるL・デビッド・メックから。メックは画期的研究を三五年間に初めて発表して以来、オオカミ研究の第一人者で、北アメリカにおいてオオカミによるとされている攻撃の全記録を詳しく調べている(注1)。その結果は、北アメリカではこれまで、人間はオオカミ(狂犬病のオオカミを除く)に一度たりとも襲われていないという事実を支持していた。
> もう一つはハンス・クルークから。彼もまた世界的に有名な動物学者で肉食動物の行動を専門にしている。クルークはヨーロッパで、オオカミによる人間の捕食にまつわる話を調査した。それは北アメリカとはまるで違う種を扱っているようだった。北アメリカに生息するオオカミは臆病で、人間との接触を避ける(アラスカの小さな村では、つながれたそりイヌを好んで食べるという例外はあるが)。一方、ヨーロッパのオオカミは、中世以前から現代まで、それとは正反対の記録を残していたのだ。

>玄関先のオオカミ
> ヨーロッパに生息するオオカミは,雌が子どものために余分の食物を求める夏にとりわけ人間を襲う(注2)。

>先に登場した動物学者ハンス・クルークは、一九九〇年代にベラルーシ(ロシアに隣接し以前はソビエト連邦に含まれていた共和国)でミンクの調査をしていた。クルークは調査地に着くやオオカミの捕食にのめり込んでしまったという。最初の事故の話が飛び込んできた。森の中の荷馬車道を歩いて家に向かっていた地元男性が失踪したらしい(ベラルーシのへんぴな村にあるモーター付き車両はトラクターだけで、自家用車は実質的に存在しない)。この人はついぞ家に戻らなかったにもかかわらず、彼の身に何が起きて,なぜ消えてしまったのか、取り立てて問題視されなかった。東ヨーロッパのこの小さな村では、オオカミが人を食べる、ただそれだけのことだったのだ。その二か月前には木こりが姿を消したと思ったら、体の一部がオオカミの足跡とともに発見されていたらしい。そして、一、二週間前にも、放課後に居残りさせられて下校時間が遅くなった小さな女の子が家にたどり着かなかった事件があったそうだ。白い雪の上に、血にまみれた娘の頭部を見つけたのは父親だった。そばにはオオカミの足跡も残っていた(父親はこのあと教師を撃った。この教師による娘への罰が事実上の死刑宣告も同然に映ったのだった。日が暮れてから子どもを一人で家に帰らせるという危険な状況に置いたのだから)。
> ヨーロッパの片隅でいったい何が起きていたのか。クルークはこの問題を追い、記録文書を見つけ出して驚いた。オオカミによる捕食だった。これが数世紀にわたって起きていたのだ。しかも東ヨーロッパの片隅だけの話ではなかった。クルークの故郷オランダ南部でも、一九世紀にオオカミが人間の子どもを大量に補食していた。オオカミによる相次ぐ襲撃を受けたのは、一八一〇年〜一一年にかけて。一二人の子どもが亡くなり、大人子ども合わせて五人がけがを負っている(死亡者は全員が三歳から十歳までの子ども)。クロアチアの親戚を訪ねたあの学生がほのめかしたとおり、ヨーロッパの歴史ではオオカミによる人間の捕食が続いていたのだ。北アメリカに住む人間には驚きだ。死の原因が腹をすかせたオオカミだなんて思いもしない。クルークもこの点について次のように見ている。

>  これらの事例は、私がたまたま訪れた土地やその近くの村で最近起こった出来事だ。統計的なデータは誰も集めておらず、 当局も関知していなかった。しかし私は、ベラルーシやロシアの果てしなく続く荒野でこういった事態が、これまで怪しげな新聞記事に載る以外はいっさい伝えられてこなかった事態がどのくらい生じているのか、疑問を抑えきれなかった。……このあたりのことをよく知っている科学者が、オオカミによる襲撃は決してまれな出来事ではないと教えてくれた。 ベラルーシやロシアにはオオカミがたくさんいる。オオカミによる殺人が西側では疑いの眼で見られていることを、彼の地で暮らす人々が知れば驚くだろう(注3)。

> この引用部分はとても説得力があると思う。遠く離れたアフリカの荒野やインドのどこかで今も人間が大型でどう猛な動物に襲われている、この事態ならば西側の人間でも理解できるかもしれない。だが今日のヨーロッパで「今まさに起こっている。厳然たる事実である(注4)」と断言できるとは、衝撃そのものだ。
>。

 肉食動物を専門とする動物学者クルークは、夏の急上昇に重要な意味があると気づいた。オオカミは春先に子どもを産み、最初の数か月は母乳だけで育てる。四か月ごろになると母乳以外の補助食として固形物が必要になってくる。記録されていた殺害のほとんどが群れではなく、単独のオオカミによるものだった。これは、雌が育ち盛りの子どもに食べ物を与えているという別の仮説とも論理的につながる(注5)。子どものために余分な食べ物をもって帰らなくてはならないという圧力から、オオカミの雌は小さくて弱い獲物を探し求め、襲いかかるようになるのだ。これは、子どもだけが選ばれて殺されていたという状況によっても支持される。たとえば牛飼いの子どもがよく殺されたが、牛のほうは手つかずで残されていた。クルークはオランダにも目を向けた。すると状況はほとんど同じで、オオカミに食べられた子どもの数は夏の数ヶ月で急増していた。クルークの調査に先立つこと三〇年、歴史家で博物学者のC・D・クラークが中央ヨーロッパでオオカミによる死亡記録を調べあげ、彼もまた、犠牲者のほとんどが子どもだと気づいていた。クラークはフランスのジェボーダン地方で三年間(一七六四〜六七年)にとくに注目した。フランス中部の比較的狭い一帯で一〇〇人(大半が子ども)がオオカミに襲われ食べられていたのだ。このオオカミ(人間が最終的に殺して調べた)は雄と雌で、平均的なヨーロッパ亜種よりも大きかったという。クラークは、これはオオカミとイヌの雑種第一世代で、極端な雑種強勢が現れていたのではないかと考えた。
> 話は第三章に戻るが、一九九六年、いつもは穏やかな『ニューヨークタイムズ』の第一面に「人食いオオカミと闘うインド」という見出しが載ったことを取り上げた。インド北部の州、ウタール・パラデシュで村人たちがオオカミの群れに猛襲を受けていることを伝える記事だ。(注6)この地方では、一九九六年から九七年にかけての六か月間で合計七六人の子ども(一〇歳以下)がいなくなっている。死因はすべてオオカミだ(一八七八年には六二四人がオオカミに殺されたという英国当局の記録がある)。『ニューヨークタイムズ』に載った、オオカミの子どもを盗む村人の記事に刺激されてか、インドの自然保護団体は次のような説明をしている。インドに残存しているオオカミのほとんどは野生生物保護区の外にいて、そのような場所では、貧しい農民と簡単に衝突してしまう。オオカミに毒を盛ったり、オオカミの子どもを殺したりするのは違法なのだが、現実には日常的に行われている行為である(注7)。

> なぜ、単一の種による捕食が二つの大陸で正反対なのか、筆者はこの解けない疑問に何度も何度も戻り続けた。ハンス・クルークもこの点には苦労している。
> 北アメリカではオオカミが人間を襲うことはまずない。これは複数の専門家筋によって確認されている。情報の不足などではなく、事実に違いない。ヨーロッパにおける最近の状況とは著しく対照的だ。ヨーロッパは赤ずきんちゃんのお話が生まれた地でもある。あの物語は実際に起こった恐ろしい、さほど珍しくもない出来事に基づいているのだ。ヨーロッパ(アジアも)のオオカミが北アメリカのオオカミとこうも違う行動をする理由は、いまだに分かっていない。だがデータからは、オオカミが人間の、とくに子どもの常習的な捕食者だった(そして今なお)ことははっきりとわかる(注8)。(p.123-130)
>注  >参考文献

 
「じゃあ,日本には北米のオオカミを導入しよう」と言われても困りますが……

 

大ヒットしたユヴァル・ノア・ハラリ のサピエンス全史ですが,その中の「ホモ属は食物連鎖の中ほどに位置を占め、ごく最近までそこにしっかり収まっていた」という記述に衝撃を受けた人が少なからずいたことに逆に衝撃を受けました

この本はサピエンス全史の10年以上前に書かれたものですが,著者のドナ・ハートとロバート・サスマンは(タイトル通り)「ヒトは天敵に捕食されながら進化してきた」という当たり前をきちんと議論しています


著者はこの本のp.321-325で,「初期人類の生態モデル」としては近縁なチンパンジーなどよりもベルベットモンキーやカニクイザルなどのオナガザル科の「雑草種」の方が相応しいと主張していますね

>最古の祖先の進化に関する説では、サバンナという乾ききった環境の重要性が強調されることが多い。ところが化石記録に従うと二〇〇万年前まではサバンナは初期人類の主要な生息地ではなかったようだ。アフリカの気候は、一二〇〇万年前から五〇〇万年前にかけて徐々に乾燥化し、この間に赤道直下の熱帯林はまちがいなく減少していった。その一方で森林と隣接するサバンナとの間に移行帯という領域が著しく広げられてもいた。アフリカ東部の大地は三五〇万年前にはまだうっそうとした森林地帯に覆われていたが、一八〇万年前ごろには低木や草原の広がる乾いた生息環境になりつつあった(注33)。こういった移行帯でまさに、初期ヒト科の行動と身体構造に変化が現れだしたのである。この時代のヒト科の化石といっしょに見つかる動植物の化石から、初期ヒト科はいろいろな環境が入り混じったモザイクのような生息地で生きていたことが分かる(モザイクとは、生態学的に多様で、季節によっても年によっても植生が変化するという意味)。また、化石発掘現場のほとんどに、川や湖といった何かしらの水源が含まれている。モザイク状の生息環境とは、密生した森や、木がまばらになる開けた森、低木林地、草原を含むような場所だった。したがって、最古のヒト科は、周辺に位置する変化に富んだ環境、あるいは森と草原それぞれの境目にかかわっていたようだ。移行環境に適応した種を「周辺種」という。また、不安定な新しい環境にすばやく広がり、コロニーをつくる能力があることから、「雑草種」とも呼ぶ。太古の時代に広がりつつあったこれらの周縁環境を、ヒト科は上手く利用し始めたらしい。密林にうまく適応した兄弟種である類人猿との競争を少なくし、兄弟共通の祖先種が占めていた生態的地位を、それより狭くて重なりの少ない二つの適応地帯に分け合ったようだ(注34)。

>霊長類のなかには境界の環境に本質的に適応している種がいくつかいる。それらの種もまた、変化する環境をうまく利用している。アフリカに生息するベルベットモンキーやアジアに生息するマカク、ラングールがそうだ。生息圏は重ならず、いずれも人間以外の現生霊長類のなかでは最も広く分布し、個体数も多い。ベルベットモンキーはアフリカで一番良く見られるサルで、川辺の林の一つ一つにベルベットの群れの群れがいるともいわれている。マカク属も、アジアでは人間以外の霊長類では最大の地理的分布を誇る。現在、アジアに生息するマカク種の多くが絶滅の危機似に瀕しているなかで、上手に生き延びている集団は境界に適応した種だ。カニクイザルは人間の集落近くで作物を荒らし、インドのアカゲザルは寺院や村の近くで見られる。ラングールのなかでも最も地上性を示す種ハヌマンラングール(インドの神聖なサル)もまた、人間との接触に成功した周辺種だ(注35)。特定の生態的地位が特定の行動レパートリーを生み出す。こう筆者は考えている。それに対して、遺伝子配列が近い二つの近縁種ほど、行動が似かよってくると主張する人もたくさんいる。そう信じるのならば、遺伝的に人間に最も近いチンパンジーボノボが、明らかに人類の祖先の一番の手本となる。しかしながら筆者と考えを同じくする、つまり特定の場所に住んでいるがゆえに特定のやり方で生きてゆかねばならないと考えるならば、チンパンジーボノボは除外しなければならない。初期人類の最高のモデルとなるのは、まちがいなく周辺種だ。われわれ人類は熱帯雨林に生きる生物ではなかった。いとこにあたるチンパンジーボノボとは違う。人類は森の周辺で暮らす場当たり的な行動をする生き物で、そういった土地では二足歩行が強みだった。

>人類最古の祖先の行動特性を推測する場合、根拠として使える最高の霊長類モデルは、同じような周縁環境に生息する現生霊長類種だと筆者は考える。該当する種はとてもたくさんいる。マダガスカルワオキツネザル、アフリカのベルベットモンキーとヒヒ、アジアのアカゲザルカニクイザル、いずれも樹上と地上の両方でかなりの時間を過ごす周辺種だ。また、すべて雑食動物で、四足歩行ながら状況に応じて実にさまざまな移動様式をとる。アカゲザルカニクイザルは周縁環境で集団をつくるのがとりわけうまい。この二種が属するマカク属は、人類がアジア大陸に到達する前にこの大陸全体に広がっていた。ホモ・エレクトスがアジアにたどり着いたのが一八〇万年前。このころには、ヒト科はもはや周辺種ではなくなっていたので(人類の祖先は現代に近くなるほど開けた環境を利用していた)、マカクを追い出すことはなかった。かつて人類の祖先がどのように生きていたのかを再現するには、この真の「雑草種」、マカクこそが優れたモデルである。

>注33-34 Conroy, G.C. 1990 Primate Evolution. W.W. Norton & Company.
Conroy, G.C. 1997 Reconstructing Human Origin: A Modern Synthesis. W.W. Norton & Company.
>注35 『ヒトの行動の起源─霊長類の行動進化学』,アリソン・ジョリー,ミネルヴァ書房 (1982/05)

  

上記の説明の理解のためには,狭鼻猿類の系統関係についての理解が必要かも知れません

まず,狭鼻猿類には
1.ヒト上科[テナガザル科とヒト科(オランウータン類と,ヒトやチンパンジー等のアフリカ類人猿)]と
2.オナガザル上科オナガザル科(オナガザル亜科【オナガザル族《オナガザル属,サバンナモンキー属…等》とヒヒ族《ヒヒ属,マカク属…等》】とコロブス亜科【コロブス属,リーフモンキー属…等】]
という2つのグループがあります

エジプトの古第三紀の地層から発見された原始狭鼻猿類(プロプリオピテクス)の歯はヒト上科に似た歯牙形態を持っていて,オナガザル上科の二稜歯性の大臼歯の方が進化的で,ヒト上科のY5型の方が原始的だと考えられています

> 1)ファイユーム[Faiyu^ m]の原始狭鼻猿類
> エジプトの首都カイロから南西にあたるファイユーム盆地では始新世後期から漸新世前期の地層から幾種類もの霊長類化石が見つかっている(Simons and Rasmussen, 1994; Simons, 1995)。そのなかでAegyptopithecus をはじめとするプロプリオピテクス科は歯牙の全体的な形態の類似からかつては原始的な類人猿と考えられていた(Simons, 1967; ル・グロ・クラーク, 1983)(歯牙以外の点では現生類人猿には似ていなかったが)。これは,ヒトに近いほど何でも「進んでいる」という思い込みがあったことに影響されたものであるが,いまでは歯牙形態の面では二稜歯性(bilophodont)大臼歯をもつオナガザル上科(旧世界ザル)の方がより特殊化しており,それにくらべるとヒト上科(類人猿)はより原始的な状態にとどまっていると考えられている。したがって,化石のなかに,一見類人猿に似た歯牙形態をもつものが出てきても,必ずしも厳密な意味でヒト上科と呼べるとは限らない。
(國松 豊(2002)ヒト科の出現―中新世におけるヒト上科の展開―.地学雑誌Journal of Geography111(6) 798―815) 

 

私たちはどうしても「ヒトに近い方が進化的であるという先入観を持ち易いのですが,実際は逆でオナガザル上科の方が進化的だということです
二稜歯は果実食への(二次的には葉食への)適応で,さらにオナガザル亜科では頬袋が発達していますね

オナガザル上科でも中期中新世のヴィクトリアピテクス科では二稜歯はまだ完成途上にあり,オナガザル科で完成する。二稜歯は,もともと葉食性への適応とされてきた。現生の旧世界ザルで,二稜歯は果実食においても葉食と同様にうまく機能しているにもかかわらず,起原的に葉食への適応であるとみなされてきたのは,現生旧世界ザル(オナガザル科)のうち葉食性のつよいコロブス亜科が果実食性のつよいオナガザル亜科にくらべ,より原始性をとどめているとみなされていたからである。しかし,大量の化石がえられた最古の旧世界ザルであるヴィクトリアピテクス科のヴィクトリアピテクスは,葉食のコロブス亜科より果実食のオナガザル亜科に類似する点が多いことがわかり,二稜歯の進化を果実食への適応とみる見解がだされている[1]。

オナガザル上科に進化しなかった真正狭鼻類の一部で尾が消失し,狭義のヒト上科,すなわち類人猿とヒトの祖先になった。
> オナガザル科のうちコロブス亜科では胃がくびれて分室化しているが,オナガザル亜科は頬袋をもつ。コロブス亜科の胃は前胃で植物性繊維を微生物によって分解する,葉食への適応である。オナガザル亜科の頬袋は相対的に“貴重な”食物である果実をすばやく口にいれて,他者に奪われないように機能する。所有や貯蓄の萌芽をになう器官といえなくもない。あるいは,種内の採食競争よりも捕食者への対策として,素早く頬袋につめた食物を安全な場所で咀嚼するために進化したのかもしれない。
>[1] Benefi t, B.R. (1999) Victoriapithecus: the key to Old World monkey and catarrhine origins. Evol. Anthropol., 7(5): 155-174. (霊長類進化の科学.京都大学学術出版会. (2007)

 

原始的なヒト上科よりも進化したオナガザル上科の方がタンニン等の植物の二次代謝産物に対する耐性や分解能力が高いことが知られています
つまり,オナガザル上科はタンニンを大量に含んだ葉や未熟な果実も餌資源として有効に利用できるということなので,「同じ環境」であっても多くの個体数を維持することができたということですね
中新世にユーラシア大陸の各地まで分布を広げていたヒト上科がその後,オナガザル上科との競争に破れて取って代わられていったのではないかという説があります
 
>しかし,時代をさかのぼると,中新世においては,類人猿は現在よりもずっと広範囲で繁栄していた。彼らは中新世前期までにはアラビア半島からアフリカ南端まで分布しており,中新世中期から後期にはさらにヨーロッパや南アジア,中国などユーラシア各地に棲息域を広げていた。ところが,中新世後期もなかばを過ぎると,類人猿の化石は非常に少なくなり,鮮新世に至ってはいまのところ類人猿化石は皆無に等しい。更新世になると,中国南部や東南アジアでオランウータンやテナガザルの化石が若干出土しているが,アフリカのゴリラやチンパンジーなどの化石は,はっきりしたものは何も見つかっていない。かわって各地で台頭してくるのがオナガザル上科の霊長類(旧世界ザル)であり,そのまま現在の状況に至るのである。
(國松 豊. ヒト科の出現 : 中新世におけるヒト上科の展開.地學雜誌 111(6), 798-815, 2002)
>この総説は,中新世以降のアフリカにおける「ヒト上科」(正確には,広くオナガザル上科以外の狭鼻類:非オナガザル狭鼻類)の衰退には,オナガザル上科との競争が影響したという仮説の検討を行った。化石記録の見直しでは,後期中新世の初頭までは,オナガザル上科の放散も,非オナガザル狭鼻類の衰退も認められない。オナガザル科の放散と非オナガザル狭鼻類の衰退は,おそらく同じ時期(1000~700万年前:10–7 Ma)に起こったと考えられる。10 Maまでに森林性のコロブス亜科と(おそらく)オナガザル亜科が現れ,未熟果も消費可能な果食者として,非オナガザル狭鼻類の(潜在的)競争者となった可能性も支持される。r戦略をとったオナガザル科は,後期中新世以降の環境悪化の下では,K戦略者だったと考えられる大型の非オナガザル狭鼻類よりも有利な立場に立ったであろう。
(中務 真人・國松 豊.アフリカの中新世旧世界ザルの進化:現生ヒト上科進化への影響. Anthropological Science (Japanese Series) 120(2), 99-119, 2012 )

 この中新世のヒト上科の中には,オレオピテクス(900~700万年前(中新世後期)のイタリア西海岸トスカナ地方の褐炭坑(湖成層)やサルデーニャ島の河成層)のように,直立二足歩行をしていたと考えられる動物までいました
オレオピテクスは(頭蓋や歯列の形態から)中新世の中~後期にヨーロッパにいたドリオピテクスに近縁で島嶼性の環境で特殊化したようです
(Moyà-Solà, S. and Köhler, M.(1997):The phylogenetic relationships of Oreopithecus bambolii Gervais, 1872. Comptes Rendus de l'Academie des Sciences, Series 2A: 324.141-148.)

オレオピテクスにはドリオピテクスやチンパンジーやテナガザルにはみられない「ヒトのような」腰椎の前湾がみられること,
恥骨(pubis)の形態がアウストラロピテクス・アファレンシスに類似していること,
ホモ属に匹敵するほど発達した坐骨棘(ischial spine)(坐骨体の後縁の上部にある,後内方に突出する三角形の棘)がみられること等,直立二足歩行の特徴があります(Köhler, M. and Moyà-Solà, S.(1997):Ape-like or hominid-like? The positional behavior of Oreopithecus bambolii reconsidered. Proceedings of the National Academy of Sciences, USA, 94: 11747-11750. )
大腿骨遠位(distal femora)の形態も,垂直登りに適応したオランウータンやテナガザルの場合は,内側顆(medial condyle)がより高くなっていることによって大腿骨が目立つほど傾斜している(極端な内反膝genu varum:O脚)のに対して,オレオピテクスの内側顆と外側顆の大きさはほぼ等しく,二足歩行に適応したアウストラロピテクス属やホモ属のわずかな外反膝(genu valgum)(X脚)と似ています(Köhler, M. and Moyà-Solà, S., 1997)
また,以前は「チンパンジーのような」と記述された足 まず,チンパンジーの足は第3中足骨(third metatarsal: Mt3)の向きが足の長軸とほぼ平行であるのに対して,オレオピテクスの場合は,長軸は第1中足骨と第2中足骨の間を通っています

さらに,オレオピテクスの第2中足骨の基部は,第1,第2,第3楔状骨(all cuneiforms)と第3中足骨に挟まれて固定されています
これらの特徴は,オレオピテクスの方がより足の内側で力を伝えていることを示しています
また,オレオピテクスは,踵骨隆起(tuber calcis)(アキレス腱がつく場所)が地面に対してほぼ垂直で,距骨(talus)の内側と外側の高さもほぼ等しくなっています
このことから脛骨(tibia)の軸もほぼ重力方向であることが示唆されますし,これは大腿骨遠位の形態から推定される外反膝(genu valgum)の方向とも一致しています
((Köhler, M. and Moyà-Solà, S.(1997)のFigure 3 )

このようなオレオピテクスの足の特徴は,その可動域や把握能力をかなり減少させています
また,第5中足骨と立方骨の結合部(MtV-cuboid contact)において,立方骨は((ドリオピテクスを含む)他の類人猿のような)外側への傾きを欠いているので,オレオピテクスのこの関節は,「垂直登り」の際に足の外側で力を伝えることができません(Köhler, M. and Moyà-Solà, S.(1997)

また,オレオピテクスの直立二足歩行への適応は,骨盤の形態からも支持されていますし(Rook, L. et.al.(1999): Oreopithecus was a bipedal ape after all: Evidence from the iliac cancellous architecture.Proceedings of the National Academy of Sciences, USA, 96: 8795-8799),ヒトのような手の器用さも持ち合わせていたようです(S. Moya-Sola, M. Kohler, and L. Rook (1999): Evidence of hominid-like precision grip capability in the hand of the Miocene ape Oreopithecus.Proceedings of the National Academy of Sciences, USA, 96: 313-317)

 

上記の解剖学的な特徴についての詳細は忘れて貰ってもかまいませんが,とにかく「900万年前に直立二足歩行への進化をしたヒト上科動物がいた」ということです
ところが,オレオピテクスを含むユーラシア大陸各地のヒト上科は,中新世後期には進化したオナガザル上科との競争に破れて衰退し,鮮新世(500万年〜258万年前)に入るとほとんどが絶滅してしまいました
鮮新世以降の僅かな生き残りがテナガザル,オランウータン,アフリカ類人猿の祖先になったのでしょう
 
客観的にヒト上科とオナガザル上科の現生種を比較してみると,オナガザル上科の方が繁栄しています
オナガザル上科の方がはるかに種数も多く,多様な環境を利用していて,(ヒトを除けば)分布も広いんですね
つまり,ヒト上科は中新世で終わった負け組で,残存種が細々と生き残っているだけなんです
 
ところが,アフリカ類人猿の一部がアフリカを出て,オナガザル上科に奪われたユーラシア大陸の棲息地に侵出しました
つまり,「人類の出アフリカ」は,ヒト上科の敗者復活戦だったとも言えます

 

というわけで,この本の本題に戻ると,初期人類は基本的に森林性の他のアフリカ類人猿と違って,現生のオナガザル科のマカク属のような周辺種だったのだから,「生態モデル」としてはこれらの「雑草種」の方が相応しいということです
 
森林において,餌が豊富なのは樹冠部と林床です
したがって,樹上生活者が時々林床に降りて餌を探し,樹上と林床を行ったり来たりするというのは生存に有利となる場合もあるでしょう
現生のチンパンジーがやっているような生活ですね
  
しかし,ヒト上科はオナガザル亜科に見られるような頬袋を欠いているので,餌を頬袋に入れて安全な場所に移動して食べるということができません
食事は餌のある場所で行うか,口でくわえるか手でもって安全な場所まで運ぶかしないといけないということですね

また,樹上生活に適応してしまったため,地上ではあまり早く走れないという欠点もあります
これは地上で天敵に襲われた場合のリスクが大きいということですね

著者が述べているように,霊長類は樹上性の天敵(猛禽類や樹上性の蛇など)に対しては体を大きくすることで被食リスクを減少させることができますが,地上性の天敵(食肉目など)に対しては大型化によるリスク軽減効果はほとんどありません 
(ゾウやカバぐらい大きくなれば別でしょうが,霊長類はそこまで大きくはなれないようです)
  
さて,この状況でどういう進化の選択肢がありえるでしょうか?
 
まずは,地上性の天敵から逃れるため,なるべく林床には降りないという選択があります
現生のテナガザル科が取っている戦略です
しかし,この戦略では林床の餌が利用できないので,体を大型化することができません
実際,テナガザル科は,最大種でも10-12 kg程度しかありませんね
>体重は最大種であるシアマン(Symphalangus syndactylus)で10-12 kgほど,他の種では5-8 kg程度とヒト上科のなかでは極めて小さいことも特徴的である。
(香田 啓貴, 親川 千紗子: “インドネシア・スマトラ島におけるアジルテナガザルの生息実態調査-音声を手がかりとして”. 霊長類研究, Vol. 22, pp.117-122 (2006) .)
 
もう一つの戦略としては,樹上から積極的に林床に降りて餌を探し,地上性の天敵が表われたら,急いで木に上って逃げるというものです
(現生のベルベットモンキーなどの警告発声等が参考になりますが,これがヒト言語の起源の一つなのでしょう)
アリやシロアリなどの昆虫,落ちた果実や種子などの豊富な餌が利用できれば,体を大型化して,樹上性の天敵のリスクを減らすことができますね
 
もちろん,前者と後者の戦略がはっきりと分けられるとは限りません
いくつかの中間段階もあったでしょう
  
そして,後者の選択を取るモノのうち,林床で安全に採餌するために,樹上での移動能力を多少犠牲にしてでも,「地上で走る」ことができるようになったグループがいたのかもしれません
 
つまり,林床で餌を取っている時に,群れの誰かが天敵の姿を確認したとたん,警告発声が上がり,一目散に近くの木まで走って上って逃げていく,というイメージですね

逃げ遅れた個体は食べられてしまいますから,より効率良く,より早く走る,ということが選択された結果,二足による移動が進化していったグループがあったのでしょう
その中の一つがヒトの祖先となったのではないでしょうか?
つまり,選択されたのは「二足歩行」ではなく「二足走行」だったのではないかという推測です

著者は,アウストラロピテクスにおいても,肉食獣に対しては木に上って難を逃れていたのだろうと推測しています
実際,アウストラロピテクス・アファレンシスの有名な個体「ルーシー」も足より手が長く(アルディピテクスほどではないかもしれませんが)木登りも巧みだったと考えられています
また,アルディピテクスには,腕渡りの形跡がないそうなので,樹上でも(現生のオランウータンのように)積極的に二足歩行をしていた可能性もあります

 

そういえば,「色のふしぎ」と不思議な社会で紹介されていた川村正二教授の仮説は,初期人類の進化の過程では獲物である昆虫や小動物にも,天敵である肉食獣にも カモフラージュされているものが多かったから,カモフラージュを見破る能力が高い2色型色覚にも利点があり,狭鼻猿類の中では例外的に色覚多型(2色型や変異3色型,いわゆる赤緑色盲色弱)が多くなったというものでしたね