「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論

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  「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論.川端裕人 (著)

 

動物園にできること」「「研究室」に行ってみた。」等で
ノンフィクション作家として定評のある著者の川端裕人
綿密な調査と専門家への取材によってまとめた力作で,
2020年に日本で出版されたノンフィクションとしては一番良い本だと思われます

「新しい色覚観」という全体を流れは明確ですが,
その内容は非常に専門的で多岐にわたります

以下が各章の内容ですが,私自身の感想や関連書籍等もからめて書いているので,
この本の正確な要約ではありません 

[準備の章]

ヒトの「色覚センサー」錐体細胞には,S,M,Lの3種類があり,
それぞれ吸収する光の波長(吸光特性)が異なります
錐体の吸光特性を決定しているのはオプシンと呼ばれるタンパク質です
M錐体,L錐体のオプシン遺伝子はX染色体上の非常に近い位置にあるので,
不等交叉が起き易く,
1.M’やL’のような(MやLに似ているが違う)融合遺伝子ができたり,
2.M,Lのどちらか片一方しかない状態になったり
します
このような状態の遺伝子を持つヒトは生まれつき標準的ではない「色覚」を持つので,
「先天色覚異常」と呼ばれます

「先天色覚異常」の内,
1.M’やL’のような融合遺伝子ができて,,
  SM’L,SML’,SM’L’,SM’M’,SL’Lのような,
  標準的ではない構成になっているものを異常3色覚(いわゆる『赤緑色弱』),
2.M,Lのどちらかを欠いているものを2色覚(いわゆる『赤緑色盲』),
と分類しています
M,Lの遺伝子がX染色体上(性染色体)にあるため,男性の方が発現しやすく,
いわゆる「赤緑色盲」は男性では5%程度ですが,女性では0.2%程度です
以上がこの本で主に扱っている「先天色覚異常」の概略です

先天的な1色覚(いわゆる『全色盲』)という色覚異常もあるのですが,
頻度としては10万人に1人程度しかいない稀な症例です
「色のない島へ」の中では.『全色盲』は3万から4万人に1人とありましたが,
 実際の頻度はもっと低いようです)

 

[第1章,第2章]

M,L錐体の異常を発見するために開発された「石原表」と呼ばれる検査が
日本では2002年まで学校検診で必須項目として行われていました
(S錐体のオプシン遺伝子は常染色体上にあるため安定していて
 『異常』の頻度が低いため,そもそも検出対象ではなく,
 石原表では検出できません)

 

1980年代後半から多くの大学・学部で,
色覚異常者の入学許可要件は緩和ないし撤廃されました
(大熊(1966)調査と高柳らによる1985年から10年間の調査の比較や
 1986年の国立大学協会から各国立大学長に対する大学入学試験への要望書
 『色覚障害者の進学機会を確保する観点から、受験制限の廃止又は大幅な緩和』
私自身も1980年代末に大学受験を経験したのですが,
色覚による制限があった記憶はありません
就労に関してもごく一部の職種以外では制限は取り払われ,
2003年以降は学校での色覚検査は事実上廃止されました

 

以上を持って「色覚に関する諸々の問題は解消した」と
素朴に感じていたと,著者は告白しています

しかし,その認識は間違っていました
色覚検査を受けていない世代が就職時に起こった問題を拾い上げる形で,
日本眼科医会が行政に働きかけ,
2014年には学校での色覚検査が(必須項目ではありませんが)
復活することになったからです

かつて,学校色覚検査は色覚異常者への差別を維持する動力として働きました
これが復活することで,そのメカニズムが再始動するのではないか
と著者は懸念します
20世紀の学校色覚検査は野蛮で配慮がなかったし,
社会全体に色覚異常者に対する不当な差別や偏見があったからです

 

1950年代の「保健」の教科書には,色盲色弱
「信号の区別がつかないので,交通事故をおこす」
「不向きな職業がある(具体的に列挙される)」
「良い子孫を残すために結婚はよく考えろ」
等々の記述が実際にあって
教師もそれに基づいて生徒指導を行っていました

 

特に,最後の例の背景には「優生思想」がありますね

この本には特に書いてない(あえて書いてない?)んですが,
戦前には「宮中某重大事件」がありました
これは皇太子(後の昭和天皇)の婚約者だった良子女王(後の香淳皇后)が
色覚異常の遺伝子を持っていることが分かり,
将来の天皇色覚異常になる恐れがあるという理由で,
元老・山縣有朋らが久邇宮家に婚約辞退を迫った事件です

結果的には,お二人はめでたくご成婚されたのですが,
先代の皇太子(後の大正天皇)の婚約者だった禎子女王は
「肺病の疑いがある」という理由で婚約取り消しになり,
何人もの皇太子妃候補の中から「体が丈夫な」九条節子(後の貞明皇后
とご成婚された経緯を考えると,
良子女王とのご婚約も破談になっていた可能性がありました

>すでに皇太子妃に内定していたはずの禎子女王に肺病の疑いがあると侍医の橋本綱常や池田謙斎らが言い出し、最近になって侍医局長の岡玄卿が、女王が肺病なのはあきらかだから結婚はやめたほうがいいとの意見を具申した。

久邇宮女王は「如何にも御体裁不宜」、一条家の娘は「御生質宜からず」、徳川の娘は「見ばえ無之」。俗な言葉で言いかえれば、ブス、イジワル、チビというわけだ。
> 
どの娘も帯に短し、たすきに長しなのである。そして、このようにいわば消去法で議論していった結果、九条家の娘節子だけが皇太子妃として適格ということになった。とは言うものの、宮中首脳たちの節子への評価は決して積極的なものではなかった。「体質は丈夫にて悪心は無之」と、健康状態も性質も問題はないとされたが、「最早致方なく、先づ以て七分通り節子と申す事に相成居候」と土方が続けたのを聞くと、かなり消極的な理由による決定がおこなわれたとせざるをえない。 土方の話を聞いた佐佐木は釈然としない気持ちを隠さなかった。
> 
土方は「やはり禎子女王がよかった」と詮ない愚痴をこぼしたうえで、こんな身もふたもないセリフを吐く(『かざしの桜』同日条)。 「節子には体質の丈夫と申す一点にて落札に相成」 落札という言い方もすごいが、体が丈夫なだけが取り柄のあんな娘を皇太子妃にするなんて、と前宮内大臣が言わんばかりなのだから可哀想なのは節子である。(大正天皇婚約解消事件 (角川ソフィア文庫)

 

話が少し脱線しましたが,
著者によると,日本で優生思想が本格化したのはむしろ戦後だということです
(松原洋子(2000)日本―戦後の優生保護法という名の断種法.優生学と人間社会 (講談社現代新書)
優生保護法(1948−1996)においては,
医師が公益上必要と認める時,本人や配偶者の同意なく,
都道府県知事の判断で,不妊手術の適否をきめることができました
その対象となるリストの中には「全色盲」も含まれていました
(実際に「全色盲」の人が強制不妊手術を受けたかどうかは
 今後の調査待ちだということです)

 

とにかく,20世紀の「先天色覚異常」に対する差別や偏見は,
当事者やその家族にとっては恐怖でしかありませんでした
自分の色覚異常を知らずに社会に出てから困る人がいたとしても,
遺伝的な欠陥という「負のラベリング」につながる
学校色覚検査を簡単に復活させることには抵抗を感じる人が多いでしょう

 

[第3章 色覚の進化と遺伝]

脊椎動物の色覚の進化と遺伝について概観しますが,本題に入る前に確認です 
分岐学ではヒト等を含む陸上脊椎動物(四肢動物)は
硬骨魚類の1グループと見做します
実際,Joseph S. Nelson著の"Fishes of the World"
という世界的に権威のある魚類系統分類学の教科書では
ヒト等を含む陸上脊椎動物(四肢動物)も
条鰭綱の姉妹群である肉鰭綱の仲間ということになってますね
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要するに,私たちヒトも「魚の一種」なわけで,
四肢動物を含まない「魚類」は側系統群になります
同様の理由で,鳥類を含まない「爬虫類」も側系統なのですが,
ここでは「魚類」「爬虫類」「原猿類」等の側系統群も説明に使っています

 

視細胞のオプシンのうち,明暗を感じる桿体オプシンは,
全ての脊椎動物が共通で持っていますが,
色覚に関わる錐体オプシンに関しては違いがあります

まず,魚類は4種類の錐体オプシン(赤型,緑型,青型,紫外線型)と
それぞれのサブタイプを持つ多様な色覚を発達させています
両生類は3色型(赤型,青型,紫外線型),
爬虫類・鳥類は4色型(赤型,緑型,青型,紫外線型)ですが,
哺乳類は基本的に2色型(赤型,紫外線型)です
これは哺乳類の祖先が夜行性の小動物であったため,
進化の過程で必要のない色覚を失ったためだと考えられています

ところが,ヒトを含む霊長類の一部では,
赤型(L型)からサブタイプとしてM型を作り出し,
紫外線型を長波長型に寄せて青型(S型)のように使う
3色型(L,M,S)の色覚を進化させました

この擬似的な3色型の起源については諸説あるようですが,
コクレルシファカやアカエリマキレムール等のいわゆる「原猿類」の個体にも見られ,
新世界ザル(広鼻猿類)では種内で3色型と2色型が混在する多様性を示しますが,
狭鼻猿類(オナガザル上科とヒト上科)では「恒常的な3色型」のようですね( 平松 千尋(2010)霊長類における色覚の適応的意義を探る.霊長類研究.26:85-98.

>ヒトや類人猿などを含む旧世界霊長類の色覚は3種類の視物質を使って色を見るため「3色型色覚」と呼ばれている。ところが南米や中米に生息する新世界ザル(マーモセット,タマリン,リスザルなど)は,一部の雌だけが3色型色覚で,雄と残りの雌は2色型だ。つまり,全く違う色覚をもつ個体が同じ群れの中に共存しているのだ。(サルが見た色の世界 色覚の進化をたどる.日経サイエンス 2009年 07月号
動物は色が見えるか―色覚の進化論的比較動物学. ジェラルド・H. ジェイコブス (著): 晃洋書房 (1994/06)

 

霊長類が進化してきた新生代初期の森林の中には,
木漏れ日が瞬く複雑な光環境があり 
その中で3色型の色覚を進化させたというのが有力な説の一つです
葉の緑の中から熟した果実の赤を識別するのに3色型が有利だったというわけです
モロンら(2000)は霊長類の生息地で,葉や果実の反射光を測定し,
その波長特性から2色型と3色型の見え方の違いを分析しました 
その結果,赤ー緑の情報を使うと,
葉の中から成熟した果実を識別できることが明らかになったのです

 

狭鼻猿類の中での3色型は「恒常的」で例外は多くありません 
2色型の頻度はオナガザル上科のカニクイザルで0.4%,
ヒト上科のチンパンジーで0.2%,テナガザルでは0%だったという調査結果があります 
[テナガザル視物質遺伝子の多様性に関する研究]2009 年度 研究成果報告書 )

また,この本では触れられていませんが,植物の進化の面から見ると,
ユーラシア大陸ヤマボウシ類は「恒常的な3色型で赤緑の識別に長けた」
狭鼻猿類を種子散布に利用するために,
サルがつかみ易い集合果を進化させたのに対して,
(狭鼻猿類のいない)アメリカ大陸のハナミズキ類は
鳥が啄み易い単果のままなのではないかという説もあるそうですね(Eyde R. H. 1985. The case for monkey-mediated evolution in big-bracted dogwoods. ArnoMia 45: 2-9.

ヤマボウシの進化にサルが介在?

> 米国スミソニアン研究所の故リチャード・H・アイド(R. H. Eyde)は彼の論文の中で表題のような興味深い、いささか奇抜と思えるような意見を提示している。(p.138, 植物の世界.41 ミズキ アオキ ヒルギ.週刊朝日百科.1995.01.29,朝日新聞社

 

とにかく,「森の中で果実を探すのに有利である」という理由で,
狭鼻猿類の中では3色型色覚が保持されていると考えられているわけです

ところがヒトは(狭鼻猿類でありながら)例外的にはっきりした色覚多型があります

まず,一定数の2色型(いわゆる赤緑色盲)が存在しますし,
LーM融合オプシンを持つ異常3色型の個体も40%近くいます

もちろん,その多くは石原表などの眼科の色覚検査では検出できないもの
(軽微な変異3色型色覚)なのですが,
要するに(軽微なものを含めれば)ヒトの約4割は色覚異常である
という驚くべき事実が分かってきたということです

元々,M,Lオプシン遺伝子は不等交叉による変異が起こり易くはあるのですが,
もし2色型や変異3色型が非常に不利であるのなら,
自然選択によってその変異は除去されていくでしょう

ヒトの中で一定数の色覚多型が存在しているということは,
変異型にもなんらかの利点があるからではないかと推測されますね

 

種内で2色型と3色型が混在する広鼻猿類(オマキザル)の群れの中で,
摂食行動を観察した結果,
果実食においては3色型の方が単位時間当たりの採食量が多いのですが
(但し,これは若齢個体のみで,経験知のある老齢個体では有為差はなくなります,Melin, A.D., et al. 2017),
昆虫を探し出すには2色型の方が有利だという結果が出ています(Melin, A.D., et al. 2007Melin, A.D., et al. 2010

実は,霊長類の「疑似3色型色覚」においては,
「赤ー緑の色覚」は物の輪郭を識別する神経を転用しているので,
輪郭を見る機能の一部を犠牲にしていると考えられています

その結果,2色型の方が物の輪郭を識別する能力が高く,
広鼻猿類(フサオマキザル)や
(2色型変異個体の)狭鼻猿類(カニクイザルとチンパンジー)を使った実験でも,
2色型の方が色カモフラージュを見破る能力が高いことが示されていますSaito, A., et al. 2005

そして,ヒトにおいても同様に,
2色型は3色型よりもカモフラージュを見破る能力が高いのです(Morgan, A.J., et al. 1992Saito, A., et al. 2006

要するに,赤い果実のような顕色の餌の探索には3色型が有利ですが,
隠蔽擬態を進化させた昆虫のような餌の探索には2色型が有利で,
両者は利点と欠点のバランスの中で進化してきたのだろうということです

 

ヒトは3色型のメリットが大きい森林を離れて,
平原で狩猟採集生活をするようになった狭鼻猿類です

この進化の過程では,獲物である昆虫や小動物にも,天敵である肉食獣にも
カモフラージュされているものが多かったと考えられます

ヒトは,集団生活の様々な局面の中で,
3色型と2色型が相互に利益を得ながら,
集団内の色覚多様性を維持してきたのではないか,
というのがここで紹介されている川村正二教授の仮説です
(河村 正二 (2009)  錐体オプシン遺伝子と色覚の進化多様性:魚類と霊長類に注目して.比較生理生化学. 26: 110-116 .)
はじめて色覚にであう本,2017

 

以上は進化生物学から見たヒト集団の色覚多様性の見方なのですが,
2017年には日本遺伝学会からも「先天色覚異常」について
「『異常』ではなく『多様性』と捉えるべきである」
というアナウンスが出されました
遺伝単―遺伝学用語集 対訳付き (生物の科学 遺伝 別冊No.22) 単行本 – 2017/9/21 日本遺伝学会 (監修, 編集)

遺伝学の見地からも
「日常生活に本質的不便さがない形質について
 『異常』という語を当てることには無理があり,
 その頻度の高さ(男性の5%)からも
 既に集団内に定着した多型であるという方が妥当だ」
ということです
(遺伝学では頻度1%未満のものを変異(mutation),
 1%以上のものは多型(Polymorphism)とする定義が一般的です)

「色覚多様性」の概念を提唱した「日本遺伝学会」の会長,小林武彦教授は
「用語を変えたのではなく,概念を置き換えた」と語っています

 

[第4章 目に入った光が色になるまで]

女性の中には4色覚というべき人がいます
いわゆる「異常3色覚」の男性の母親は,
通常のM,L遺伝子の他にM’やL’遺伝子を持っているのですが,
この遺伝子が発現した場合,通常の3色覚の人よりも細かく
「色弁別」(違いの少ない2つの色光を見分けること)できるようです

 

このようなオプシン遺伝子の多様性は「色弁別」に関わる色覚の多様性です

しかし,色覚とは「色弁別」だけではありません
栗木一郎准教授は
「(『色覚』の中でも)『色弁別』と『色の見え』は別の事象だと考えた方が良い」
と言います
光自体には色はなく,
網膜上にある「吸光特性が異なる」L,M,S錐体細胞への光刺激値が
「色」 を作っています

光刺激値以外の情報は失われてしまうので,
たとえ光に含まれる波長の分布(分光特性)が異なっていたとしても,
錐体細胞への光刺激値の比が同じであれば同じ色に見えますし,
「赤紫色」のような単波長の光としては存在しない「色」も存在するわけです

 

L,M,Sの3錐体の刺激値は網膜上にある神経節で加工されます
赤ー緑チャネルではLーMが,正では赤み,負で緑みとなり,
青ー黄チャネルではSー(L+M)が,正では青み,負で黄色みとなり,
加工された情報が後頭部の初期視覚野に送られます
この情報がそのまま色覚となるなら話は単純だったのですが,
そうではないことが分かってきました

 

「ユニーク色」という概念があります
これは個人の主観的な色の見え方に関わるもので,
例えば,混じりけのない赤,緑,青,黄等と感じられる色で,
それぞれ「ユニーク赤」「ユニーク緑」「ユニーク青」「ユニーク黄」等と言います
網膜上の神経節の各チャネルの反対色応答に対応するのがユニーク色だろう
というのが素直な考えでしょう
ところが,赤ー緑チャネル,青ー黄チャネルの値から想定される
理論上の赤,緑,青,黄と,このユニーク色は,大幅にずれていて,
しかも大変な個体差がありました(Webster, M.A., et al. 2000
自分にとっての「混じりけのない緑」は他人とっては黄緑だったり,
青緑だったりするのです
「この食い違いはただ大きいだけじゃなくて,線形和ですらない」
と栗木准教授は語っています
色覚異常」についてよく「色間違い」が問題になりますが,
いわゆる「正常色覚」とされる人同士も.
実はお互いに「色間違い」をし合っているということなんです

 

2015年にネット上で「『青と黒』にも『白と金色』にも見えるドレス」が
話題になりました
f:id:shinok30:20210324112541j:plainThe dress - Wikipedia

「なぜこのドレスが見る人によって違って見えるのか?」
という問題については
色覚研究の専門家の間でも正解は出ていません

ほとんどの専門家は,
「無意識に行われる照明光の推定に個体差があるからだろう」
と推測しています 
しかし,なぜそのような個体差があるのかについてはよく分かっていないのです

 

これは「色の恒常性」に関わる問題です
物体からに反射光の分光特性は照明光によって変化するので,
照明光が変わっても「物体の正しい色」を認識するためには
照明光による補正をする必要があります
これを 色の恒常性と言います

上のリンク先の例を見れば分かるように,
無彩色に近い色であっても
周囲の赤いと「藍色」に,周囲が青いと「黄色」に,
周囲が緑色だと「赤色」として知覚されます
 
このように,
物体の色が背景の色(地色)の心理補色に近づいて知覚されてしまう現象
のことを色相対比と言います

黒の背景に置いて「緑」の色紙を学習させたアゲハが黄色の背景上では黄緑を
青い背景上では青緑を選ぶことから,
アゲハにも
「物体の色が,背景の色(地色)の心理補色(反対色)に
 近づいて知覚されてしまう現象」
=色相対比(色誘導)があるらしいことが分かります

>ヒトの色覚には色の見え方が物体と背景の反射スペクトルの対比によって決まることを示す色対比や明度対比と呼ばれる現象がある。色対比は回りが赤中央が灰色というドーナツ状のパターンを我々が見たときに中央の灰色がうっすらと緑色に見える現象である。この現象は赤が緑を誘導することから色誘導とも呼ばれる。また背景の色と誘導される色の関係は反対色と呼ばれる。

>アゲハの色覚には色対比が含まれるだろうか?アゲハに黒の背景上に置いた似た色紙の中から緑を選ぶように学習させる。このアゲハに同じ色紙のセットを見せて背景の色を変える。アゲハは黄色の背景上では黄緑を青い背景上では青緑を選ぶ。この結果はアゲハの色覚に色対比と反対色があることを示している(未発表)。 (木下 充代(2006) アゲハが見ている「色」の世界.比較生理生化学. 23: 212-219.)

 

アゲハのような昆虫にもあることから,
この現象は動物の色覚において普遍的で,
生まれつき持っているものだと考えられていましたが,
視覚体験によって獲得されるという研究もあり,
まだまだ分かっていないことが多いようです

>乳幼児期の視覚体験がその後の色彩感覚に決定的な影響を与える
-色彩認識のメカニズム解明に大きく前進-
>ポイント
>色の恒常性を含めて色彩感覚は生まれながらに持っているものと考えられてきたが、乳幼児期の視覚体験によって獲得されることが明らかになった。
>また、視覚体験が受容器官(網膜)ではなく大脳皮質に効果を及ぼしていることも同時に明らかになった。
>今後、この成果によって色彩認識の神経回路の解明が加速的に進んでいくと期待される。
産総研:乳幼児期の視覚体験がその後の色彩感覚に決定的な影響を与える

 

[第5章 多様な、そして、連続したもの]

日本では色覚検査は「石原表」(仮性同色表)でスクリーニングを行い,
異常の疑いがある場合にはアノマロスコープ(緑と赤を混ぜて黄色を作る)で
確定診断することになっています

あくまで,L錐体とM錐体に関わる色覚異常のみに特化した検査ですが,
非常に信頼されていました

しかし,石原表を開発した石原忍の弟子で,
色覚研究の第一人者だった加藤 金吉(1965)は,
今から約50年前 ,
「現在,正常者とされている者の中に軽度の異常者が紛れ込んでいる可能性」
を指摘し,
「そもそも正常と異常は異なったカテゴリーに属するものなのか?」 
と問いかけています
加藤(1965)
「将来,新しい検査法が開発された場合,色覚異常者の頻度も変わるのではないか」
という予想していましたが,現在それが確認されつつあります

新しい検査法,具体的にはアメリカ空軍のCCTとイギリス民間交通局のCADです

 

まず,CCTは各錐体の弁別能力をコントラスト感度として直接測定してスコア化する
コンピュータベースの検査です

空軍パイロット候補に求められる基準値(スコア75以上)は
実際の業務と照らし合わせて決定しています

パイロット候補者を検査した結果,
1.スコアの分布は連続していて正常と異常のギャップはなかったこと
2.当初満点とされたスコア100以上を測定したところ,
  100以上の「スーパーノーマル」に正規分布の山があったこと
が分かってきました

 

次にCADですが,
これは「赤ー緑」「青ー黄」の反対色チャネルごとの閾値を測定するタイプの検査です

基準に関しては,ボーイング社とエアバス社の航空機を実際に飛ばして確認しています
項目によっては(「進入角指示灯の確認」等)
正常者よりも異常3色型の方が成績が良いものもあり,
従来の色覚検査では不適格とされた人の35%に門戸を開くことなりました
(弱い赤緑色覚(CV4)まで問題ないとされています)

この検査でも「スーパーノーマル」(CV0)とされる人の存在が明らかになりました 

また,閾値の分布もほぼ連続しています
(小さなギャップはありますが, 
 このギャップは従来の色覚検査では検出できないものです)

 

ちなみに,石原表で色覚異常と判定された著者は,
アノマロスコープでは正常,
CCTではM錐体が基準値以下でアメリカ空軍パイロットとしては不適格ですが,
海軍船舶業務には問題なし,
CADでは「赤ー緑」閾値は異常3色型の特徴は出ているものの「安全な3色覚」(CV3)
「青ー黄」閾値は「スーパーノーマル」で,
民間航空機のパイロットとしては問題ないという結果でした

 

「色覚は,連続していて,多様で,広い分布がある」というのが,
50年前の加藤(1965)の問いに対する21世紀の回答だと著者は結んでいます

 

[第6章 誰が誰をあぶり出すのかー色覚スクリーニングをめぐって]

先天色覚異常について軽いほど危険という言説があります

例えば,

>先天色覚異常は、確かに軽度であれば、日常で困るようなことは少ないでしょう。
>どんなに軽度であっても、自らが色覚異常であると認識すること。これが何より大切です。そのためには、やはり検査を受けなければいけません。(知られざる色覚異常の真実.市川 一夫 (著).2015)

>自分の色覚異常に納得できない人もいます。患者さんが言う「自分は赤緑もわかるし、今まで色を間違ったことがない」という言葉に惑わされないで下さい。(先天赤緑色覚異常の診療ガイダンス.村木 早苗 (著).2017)

いずれも2010年代の書籍からの引用なのですが,
そもそも軽微なものを含めればヒトの約4割は色覚異常ですし(第3章),
正常と異常の間に断絶はなく,
どちらの中にもなだらかな分布があることが分かっていて(第5章),
さらに正常の中でもお互いに色間違いし合うのは普通のことなのです(第4章)
そんな中「検出すべき色覚異常」とはなんだろうという疑問が湧くのは当然のことです

それでも「学校での色覚検査はあくまでスクリーニング」だから
「取りこぼしがあってはならない」という主張があります

学校検診での色覚検査の徹底によって得られる利益と不利益を定量的に検討してみましょう

 

石原表は,
>検査としての特異度(正常色覚を異常色覚と判定する偽陽性率が低い)と感度(異常色覚を正常色覚と判定する偽陰性率が低い)とがともに高いことが標準的検査法として推奨された最大の根拠である。『色覚検査表石原氏色覚検査表Ⅱ国際版38表』:序文)

まず,検査のおいて,特異度と感度はトレードオフの関係にあって,
どちらも高いということは一般的にありえません
次に,上記の引用文中の特異度と感度の説明は間違っていて,正しくは
特異度は「正常色覚者の中で検査で陰性(偽陰性)になる人の割合」
感度は「異常色覚者の中で検査で陽性になる人の割合」
偽陽性率は「検査陽性になった人の中の偽陽性の人の割合」なので,
例えば,異常色覚者の頻度が低い母集団であれば,特異度が高くても偽陽性率が高くなることはあり得ます(詳しくは「数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活―病院や裁判で統計にだまされないために.早川書房 (2003)参照)

そして,ともに高いとされている石原表の感度と特異度の
具体的な数値はどこにも書かれていません
著者は石原表の著作権者の「㈶一新会」に問い合わせていますが,
「調べていません」という回答(著作権者も性能を知らない!)でした
海外では石原表(但し現行版ではなく旧版)で検査した人全員を
アノマロスコープで確定診断して石原表の性能を求めた研究(Birch(1997))があり,
ここでは特異度94.1%,感度98.7%という数字が得られています

 

日本の小学1年生男子50万人が全員「石原表」検査を受けたとしたらどうなるでしょう
男子の色覚異常の頻度が5%だとすると,
色覚異常者は2.5万人,正常者は47.5万人
石原表の感度が98.7%だとすると,
色覚異常者2.5万人のうち,陽性となるのは2.5万人×98.7%≒2.47万人,
陰性となるのは2.5万人ー2.47万人=300人

石原の特異度が94.1%とすると,
色覚正常者 47.5万人のうち,陰性となるのは47.5万人×94.1%≒44.7万人,
陽性となるのは47.5万人ー44.7万人=2.8万人

表にまとめると,

 男子 色覚異常 色覚正常  
石原表陽性 2.47万人 2.8万人 5.27万人 偽陽性率=2.8万/5.27万≒53.1%
石原表陰性 300人 44.7万人 44.73万人 偽陰性率=300/44.73万≒0.67%
2.5万人 47.5万人 50万人  

次に,小学1年生女子50万人も同様の検査を受けたとします 
女子の色覚異常の頻度が0.2%だとすると,
色覚異常者は1000人,正常者は49.9万人

石原表の感度が98.7%だとすると,
色覚異常者1000人のうち,陽性となるのは1000人×98.7%=987人,
陰性となるのは1000人ー987人=13人

石原の特異度が94.1%とすると,
色覚正常者49.9万人のうち,陰性となるのは49.9万人×94.1%≒47万人,
陽性となるのは49.9万人ー47万人=2.9万人

表にまとめると, 

女子 色覚異常 色覚正常  
石原表陽性 987人 2.9万人 3万人 偽陽性率=2.9万/3万≒96.7%
石原表陰性 13人 47万人 47万人 偽陰性率=13/47万≒0.003%
1000人 49.9万人 50万人  

 つまり,小学1年生100万人に色覚検査を実施した場合,
8.27万人(男子5.27万人,女子3万人)の陽性者が出ることになります 
日本の就業眼科医は1.3万人しかおらず,
アノマロスコープで確定診断できる病院は非常に限られています
毎年,8万人以上の児童を確定診断するというのは現実的ではありませんから, 
20世紀の学校検診による色覚検査と同様に,
ほとんどが確定診断を受けることなく,
石原表の結果だけで負のラベリングをされる可能性があります
この場合,偽陽性の5.9万人(男子2.9万人,女子3万人)にとっては
デメリット(しなくても良い自己規制等)だけでメリットはありません

 

偽陽性率は男子でも53.1%,女子に至っては96.7%にもおよびます
これは,女子の色覚異常のように,頻度が0.2%しかないものを
スクリーニングするのがいかに難しいかを物語っています 
(前述の「頻度が低い母集団であれば,特異度が高くても偽陽性率が高くなることはあり得ます」の意味です)

 

実際に江戸川区の小中学生を対象に
石原表による検査を実施した後,
陽性者を確定診断した結果は以下のようになっています
(田中眼科の田中寧院長がCUDO(カラーユニバーサルデザイン機構)友の会で発表)

2015年 男子 石原表陽性者 正常者 異常者 偽陽性
小学生 385人 195人 190人 50%
中学生 118人 85人 33人 72%
2016年 男子        
小学生 219人 90人 129人 41%
中学生 64人 39人 25人 61%
2015年 女子        
小学生 224人 202人 22人 90%
中学生 75人 71人 4人 95%
2016年 女子        
小学生 90人 78人 12人 87%
中学生 36人 35人 1人 97%

※石原表陽性者に対する正常,異常の確定診断はアノマロスコープ ではなく,「学校用よりも枚数の多い石原表」,他の色覚検査表,パネルD15テストを使って総合的に判断しています

男子の偽陽性率が4〜7割であるのに対して,女子は9割以上になっています
これは先ほどのシミュレーションの数値が現実的である傍証といえるでしょう

ちなみに,女子に石原表の偽陽性が多いことは既にたくさん指摘されています(例えば『つくられた障害「色盲」.高柳泰世 (著)』

女子には一定数の4色型が存在し(第4章),
3色型よりも色弁別には優れていますが,3色型とは見え方が異なるので
石原表を誤読する偽陽性になり易いのではないかという仮説があります

しかし,そういうことを考慮しなくても,
女子は男子よりも頻度が圧倒的に低いので,
同じ検査をすれば 偽陽性率が高くなるのは当たり前ですね

 

先ほどのシミュレーションの数値が現実になったとすると,
(きちんと確定診断をした場合)全国で毎年男女会わせて,
約2.57万人の色覚異常者が検出されますが,
そのうちどれだけの人が利益を受け,
どれだけの人が負のラベリングを受けるだけになるのでしょう

 

第2章で述べられているように,1980年代後半以降,
色覚による大学入学制限のほとんどがなくなりました

例えば1966年時点では,医学部の約9割に入学制限がありましたが,
1993年には国立大学医学部の入学制限は0になっています
当然,現在の医師の中には先天色覚異常の当事者が数多くいますが,
社会問題になるような大きなトラブルは起きていません
かつて,色覚について設けられていた制限が実は不必要だったということでしょう

 

ほとんどの子どもにとって学校検診で色覚検査を受けるメリットはありません

パイロットや鉄道運転士のような特定の職業を志望する子どもとっては,
現状ではメリットがありますが,
進路を考える年齢(中学,高校生)以上の希望者に限定するべきでしょう

 

[終章]

ヒトの色覚に対する社会的な理解を深めるには
「色覚観」を組み替える必要があると著者は訴えています

 

そのためには「用語」の問題も大切です
色覚異常」の「異常」だけでなく,「正常色覚」の「正常」も問題です
「正常」というのは「異常がある」ということを前提とした語だからです
著者はたまたま多数派であるだけというフラットな表現として,
「C型(Common)色覚」「多数色覚」を提唱しています
この場合,「先天色覚異常」は「少数色覚」と言い換えられます

確かに,頻度論はフラットな見方ですが,
今後「異常3色覚」が実は多数派の集団が見つかるかもしれないと考えると,
あまり良い表現ではありません
12人に1人が『全色盲』の島(「色のない島へ」)や
新生児の1/4以上が先天性の聾者の島(みんなが手話で話した島)
実在するぐらいですから,
誰も気づいていないだけで「軽微な異常3色覚が多数派の村」もあるかもしれません

 

これに対して,進化生物学者の早川卓志からの回答(提案)は
頻度論を超えた進化のメカニズムに即したものです

「正常」色覚は「祖先型」(分子遺伝学ではWildtype,分子進化学ではAncestral),
「先天色覚異常」は,進化の過程で
LオプシンとMオプシンに派生的に現われたものなので「派生型」(Derived)
というものです

 

この「祖先型(A型)色覚」「派生型(D型)色覚」というのは,
単なる言い換えではない,概念を置き換えた良い表現だと思います